【前回の記事を読む】1人でいるのが怖くて、つい誰かと一緒にいたい…だが友人や恋人といても、なぜか心は圧迫されていく。「孤独」より恐ろしい、その正体とは

第一部:売春の芸術

Ⅲ 「群衆を楽しむ」

「群衆に沐浴(もくよく)するというのは誰にでもできる業ではない。群衆を楽しむことは一つの術(アール)である」(『ボードレール全集』パリの憂鬱12 群衆)

このように、群衆を楽しむという技法はボードレールの一つの芸術である。この群衆を楽しむ、つまり『未知の物に己のすべてを与えつくす、この神聖な売春』は、普通の人が群衆の中に己をすべて忘れようとする愛とは異なる。ボードレールの売春は群衆の中にありながら己を忘れることはなく、しかも己をすべて与えつくすという技法だ。

そして、それと同時にボードレールにとって、これは幸福なのである。

「他の何人もの人々が自分と同じふうに生きるのを見なければ、私は自分が幸福だと信じないでしょう。

私はこうやって自分の幸福を証明するのです」(『ボードレール全集』哀れなベルギー!8)

ボードレールは、他の何人もの人々が自分と異なるふうに生きるのを見て、幸福を感じるのだ。そのために「ある見知らぬ男の面相を一瞬の間垣間見ただけで、すっかり心を奪われ、その男を探しにこの群衆をかき分けて突き進んでゆく」のである。「好奇心が宿命的な抗いがたい情熱」となって。

また、以下のようにも言っている。

「世界を見ながら世界の中心にいながら世界に対して身を隠したままでいること、(中略)観察者とはいたるところにお忍びを楽しむ王侯である」(『ボードレール全集』現代生活の画家3)

好奇心にかられた観察者である詩人は、群衆の中にいながら、群衆に身を隠したままどんな人物の中へも入ってゆく。

芸術に彩られた一連の技法がどんな世界をもたらすのか、我々のような凡人である我々がそれを想像することは容易ではないが、かの天才はその情景について「意識をそなえたカレイドスコープ」と表現している。

カレイドスコープとは万華鏡だ。群衆のなかに入っていく「普遍的な生を愛する者」が、中身のオブジェクトとなり、同時に、群衆と同じくらいの大きな鏡として機能し、対面に群衆の姿を映し出す。そして、ひと動きごとに多面的な生を、生のあらゆる要素の動的な魅力を表象するのである。

観察者に見える生の結晶は、絶え間なく非我を求める自我であり、「いつも不安定でうつろいやすい生そのものより一段と生気ある影像として、(非我を)再現し表現する」。