「そう、わたしのことを覚えていないって言うのね」
「はい、あなたにお会いするのは今日が初めてです。失礼ですけど、わたしとはどこかでご一緒だったんでしょうか?」
「東京の大学よ。それも三年間一緒にいた親友をわたしが忘れるとでも思っているの」
「東京の……ですか?」
「そうよ。同じ文学部。あなたが国文科、わたしが英文科だったじゃない」
「失礼ですけど、東京には一度も行ったことはありません。今時おかしいと思われるかもしれませんが、本当のことです。それに、近くの奈良や大阪を別にすれば、この京都からあまり外に出たこともありません。ですから、わたしが東京であなたにお会いすることもないわけです」
「え!? それじゃあ、あなたの故郷は千葉じゃなくて、この京都だと言うの?」
「はい、この京都で生まれ、ずっとここで暮らしてきました」
加奈子は、その言葉で、これまでの確信が音を立てて崩れていくような目眩(めまい)を感じ、次に言うべき言葉を失いかけた。しかし、それでもやはり、どうしても納得できない……という強い思いが加奈子を奮い立たせた。
「そう、分かったわ。そういうことなら、もうこれ以上あなたを香織って呼ぶのはやめるわ。そのかわり一つだけ聞いていいかしら」
「何をですか」
「あなた、こんな歌を知っている?」
「歌?」
「音(ね)の常春(とこはる)の桜の頃 心祈るは夫(つま)待つ春の色 心この楽(らく)さ乗るは琴の音」
「何ですの、その歌は?」
「恋の歌よ。あなた、ご存じ?」
「いいえ、初めて聞く歌です。どなたの作品かしら?」
「ある女性のよ。それもかなり若い時の」
「わたしの知っている方?」
「多分、いいえ……とてもよくね」
「……」
「香織、あなたよ。そう、あなたの作った防人の妻の歌……回文よ!」
その時、香織の顔には、微かな驚きと深い悲しみの表情が浮かんだように思えた。しかし、その表情は、そこに何かの意味を探り当てる余裕を加奈子に与える間もなく、最初に出会った時のあの空蝉(うつせみ)のような表情に戻ってしまった。
そんな二人の前で、本物の半跏思惟像は、右手を軽く頬に添え、口許に不思議な微笑を浮かべたまま、静かに瞑想していた。
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