【前回の記事を読む】「防人の妻の歌よ」出征した夫の帰りを祈る歌…大学で出会った親友が作った“回文の歌”
防人(さきもり)の歌
「そうなの、だから高校生の時に初めてこの歌に出会った時、妙に嬉しくて家から朝夷の方に通じる黄昏の小道を何度もその歌を暗唱しながら歩き続けた記憶があるの。
わたしは、この歌を口ずさみながら、東方にある遠い故郷の方角から吹く風にすら望郷の念を募らせ、家に残してきた妻への慕情を切々と歌い上げた万葉人の清純な魂が、わたしの生まれたこの故郷にもあったことに感動したのかもしれないわね。その時、わたしは思ったの……。もし、わたしがその人の妻だったら……ってね」
「あら、あなたの想い人ってずいぶんお年寄りなのね。ちなみに、その男性が現在も生きているとしたらお歳は千三百歳くらいかしら、それじゃあ、いまの若者に興味が湧かないのも分かるわ。二十歳や三十歳ぐらいじゃ赤子も同然だものね」
「笑わないって言ったじゃないの」
「はい、はい、分かりました。それで、あなたの回文の歌の意味は?」
香織が加奈子に語ったその歌の内容は、少女趣味といっていいほどたわいもない「万葉の恋」の物語だった。
そして、それは、防人となって遠国に赴いた夫の任務が終わる三年目の春、咲き乱れる桜の花と歓喜の琴の調べに託して、最愛の夫の帰りを待つ新妻のいじらしいまでの心の情景を、万葉の時代への仄(ほの)かな憧れをもって清楚に歌い上げた愛の賛歌でもあった。
回文という制約もあってか、歌というにはぎこちないところもあるが、単純な恋歌としてみればそれなりに感じも出ており、素直で好感を持てる一文でもあった。
しかし一方、その歌には、いかにも香織らしい……といって安易に見過ごしてしまうにはどこか危険な「秘愛」が潜んでいるようにも感じられた。それは、ある種の「秘香」が放つ禁断の香りにも似ていた。