【前回の記事を読む】「家族と一緒に暮らしたい」と船を降りた。しかし、陸には海にいた頃より稼げる仕事はなく…パチンコに逃げる生活になり家族は…

第一部 自叙伝

Ⅱ 挫折

明神水産

自身の息子で〝道の駅 なぶら土佐佐賀〟の駅長をしている長男の慶氏、第23明神丸の船頭をしている次男の洋次氏にも社長という立場から優遇はせずいつも他人より後回しとしています。

工場勤務での仕事は流れ作業がメインです。朝の8時10分から17時までずっと同じ作業の繰り返しです。どうも私は同じことを繰り返してやるとか一つの場所でずっと仕事をすることが苦手な性格なようで、3ヶ月ぐらいすると飽きてきていつもの虫がムズムズしてきて何か違う作業をしたいなぁと思い出し始めました。

給料も少なかったし帰ってもやる事がないし、漁師の時は船に乗っている間は寝る事以外はほぼ仕事という意識だったので、やる事がないのが嫌でした。娘と外食するにも高い店には行けず、高いおもちゃや洋服も買ってあげられないし、当然奥さんにも贅沢させることも出来なくなっていたので、とにかく働いて稼ぎたいという思いは人一倍ありました。

上司だった水産の専務に何か仕事はないか、何でもやるので何かないかとか、父が当時製造現場のトップだったので休みの日でも何か仕事はないかとよく言っていました。秋になると休日は会社から借りたトラックで農家に出向き直接藁を買って明神水産に売って小遣いを稼いだり、冬の伊勢海老のシーズンは飼育係担当になり手当を少し稼いだりしてました。勉強もそうでしたが、私は性格的に同じことをずっと繰り返す仕事より体を動かしたり新しいことに取り組む仕事が好きなんでしょうね。

長女が生まれてから6年後の2000年9月13日に次女、桃子が生まれました。出産の時は水産の加工場から病院へ直行し、生まれてすぐに対面したのでとても感動しました。

何でもやって稼ぎたい行動が目に留まったのか、入社4ヶ月後の桃子が生まれて4カ月になったある日、専務から話があるので高知空港に迎えに来てくれないかと連絡があり、迎えにいくと〝高知市内のひろめ市場に出店しないかと話がきている。軽い食事と物販のお店を考えているが店長としてやってみないか〟と話がありました。

条件は高知に単身赴任で給料は月30万でどうかと言われました。当時飲食の経験も商売の経験も無い私でしたが、飲食店は何か楽しそうだと思い、なお且つ30万も給料がもらえるのならやるしかないと思い即答でやりたいと伝えました。これが、私の初めての飲食店経営のきっかけです。