【前回の記事を読む】私が1歳の時、父がビルマで戦死した。両親が夫婦でいられたのは3年間だけ。母は、戦地から送られてきたハガキを文箱の中に…

第二章 会ったことのなかった人たちの存在感

祖母・大橋フサ(旧姓葛和、1891〜1958)のこと

 

生まれたばかりの私を父の次に抱いてくれたのは、この祖母フサだった。1941(昭和16)年に、初孫に会いにアメリカから来てくれたのである。そして、アメリカへの帰国は、太平洋戦争の始まるわずか2ヶ月前、その年の10月のことだった。

先にも書いたように、僧職であった祖父・廓道が人生を変えるために渡米した原因は、下宿先の娘だった祖母との間に、私の父が生まれたことにあると言われている。その後、祖父・祖母ともに人生の後半40年をアメリカで過ごしている。

叔母・蔵田芳枝 Mary(1919〜1982)のこと

 

父には、妹が二人いた。ともに米国生まれの日系2世である。私がはじめて会った父の家族は、その叔母の一人・蔵田芳枝であった。手紙の交換はだいぶ長いことしていたが、私が20代前半のとき、ロサンゼルスから東京に会いに来てくれた。その叔母も、日本に来たのはそのときがはじめてだった。

夏休みだったが、10日か2週間ほど東京のいろいろなところを一緒に歩いた。私の父が葬られている多磨霊園はむろん、銀座などの繁華街、それに浅草、夜の吉原への観光バスまで――。

この東京訪問は一種の面接試験のような感じで、別れるときには「あなたがアメリカに来るのだったら、協力してあげる」ということになった。私が修士号を取ってすぐ留学できたのはこの叔母のおかげである。

まだ、1ドルが360円の時代である。叔母は飛行機の切符も送ってくれたし、何より私の身元引受人になってくれて、おかげでビザや滞在許可も問題なく出た。

ハーバード大学からは生活のための奨学金として、年に5000ドルほど出ることになっていたが、外国からの留学生は1年目は授業料が免除にならないということだった。それで、授業料はこの叔母が出してくれた。当時のお金で、2万ドル。大金だ。戦死した兄の一人息子である甥の私に、叔母はここまでしてくれたわけだ。

ただ、2年目・3年目はティーチングアシスタントで、4年目はリサーチアシスタントで、授業料は全額免除になった。生活費は、学生結婚をしたあとも、二人が生活していくのには奨学金で十分だった。したがって2年目以降は、経済的には叔母の世話にならないで済んだ。

もうひとつ、その叔母にしてもらったことに結婚式がある。ハーバード大学の2年が終わってから、私はボストンから、妻は東京から出発し、ロサンゼルスで合流して、叔母の世話で結婚式ができた。

東京にいた我々二人の母親は列席できなかったが、叔母二人のところには合わせて13人の子供、私にとってのいとこがいた。それに、義理の叔父、父の昔の友人など、多くの人に祝福された結婚式になった。芳枝叔母のおかげである。