【前回の記事を読む】「ここに住むことになるのよ」…深夜の仙台駅を見つめて、母はぽつりとこぼした。その言葉が何を意味するのか、私はまだ知らず……
第五章 教授の妻として
一家で仙台へ
教授の仕事は、学問と教育である。私の記憶では、親父は家に仕事を持ち帰ることはほとんどなかったが、時おり家で論文を書き、原稿の執筆をしていたような気がする。もちろんワープロやパソコンなどなかった時代なので、肉筆で原稿を書き上げる。それから、おふくろに原稿の清書を依頼していたことを覚えている。
夜遅くになって原稿を書き上げ、それから母に「明日の朝までに清書するように」と依頼する。親父が当然のことのようにそう言い渡していたが、それに文句を言うおふくろを見たことがない。一日の家事を済ませ、深夜から清書を始めるおふくろ。居眠りをする姿もしばしば見たことがある。亭主関白の典型、そんなことを感じた。
慣れない土地での暮らし
仙台での新しい生活が始まった。おふくろは住み慣れた東京をあとにして、慣れない地で教授の妻として、母親としての新たなスタートを切ったわけである。
仙台南部の原町(現代の仙台市宮城野区苦竹町付近)が、最初の仙台での借家住まいの地であった。原町は自衛隊の駐屯地がある町で、東京と比べるとはるかに田舎であった。
自衛隊の宿舎が近くにあり、子どもがたくさんいたが、頭はみんな坊主で、どの子も皮膚病で、顔や頭に白い斑点があった。鼻水は緑色、しかも両方の鼻から垂れていて、息をすると、鼻水が呼吸に合わせて上下するのが印象的だった。
おふくろは地元に馴染んでゆく子どもたちを逞(たくま)しいと思う反面、仙台弁を覚えていくことに複雑な感情があったことと思う。
遊ぶところには苦労しなかった。特に冬の雪は格好の遊び場になる。雪がマット代わりになるので、思いっきり投げられても痛くも痒くもなく、気持ちよい。みんな投げられるほうを好んだ。
原町に一年ほど住んだ後、新興住宅地である仙台北部の旭が丘に新居を建てて引っ越した。
中学は上杉中学校。進学校で、越境入学の生徒が多かった。英語の授業のことをよく覚えている。山崎リン子先生は、私が英語を好きになったきっかけをつくってくれた恩師だ。宿題は、わら半紙一枚に、真っ黒になるまで単語のスペルを書くこと。特にローマ字式でないスペル、「beautiful」などをよく書かされた。
これが私の英語力の基盤となり、山崎先生には今でも感謝している。