【前回の記事を読む】相手は「おまん」、強者は「ガイッちょ」、他「どうすっと」「だすけ」…関西から肥後、外国まで混じる言葉を使う町

第二章 今町と高田

越後高田藩。直江の津・今町から二里(約八キロメートル)ほど南、高田藩の居城

─高田城─

は広大な堀に囲まれて聳(そび)えている。

越後高田藩の祖は、徳川家康の六男松平忠輝である。当初、春日山城城主であった堀秀治の嫡子・秀俊が直江の津・今町の北東部に福島城を築城。しかし堀一族の内紛から改易となり、慶長(けいちよう)十五年(一六一〇)、松平忠輝が七十五万石で入城した。

松平忠輝は家康の側室・茶阿局(ちやあのつぼね)の子であり、文武で多才な側面を有していたことから名門長沢松平氏の家督を継いだが、かえってその才識ぶりを家康から疎うとまれていたともいわれている。

なぜ、直江の津・今町から南西へ二里も離れた雪深い地へ移ったのか。それには諸説ある。海の近くで水難を避けるためとも、冬場の海からの風を避けるためともいわれている。

しかし一方で、忠輝と母親の茶阿局は大変に信心深かったという記録がある。ある占術師から八卦(はつけ)により移動の適地を言い当ててもらったという。仏教の西方浄土である、西国の地・天竺(てんじく)に見立てて、南西の高田に新たな城下の形成を試みたとの仮説もある。

その証として、全国的にも珍しい百カ寺以上の寺院を意図的に配した“寺町”がある。これほど狭い地域に、これほど多くの寺院が密集する城下町は稀である。

仏教、神仏への『信仰』『信心』という点において、この直江の津・今町から高田越後西部にかけては、「日本の霊性」の原点ともいうべき刮目(かつもく)すべき点が深く刻まれている。

浄土真宗の祖・親鸞(しんらん)が流罪になり直江の津で過ごすなか「教行信証(きようぎようしんしよう)」を創出している。また臨済宗の僧・白蓮もこの地で修行に身を置くことで悟りの境地にいたった。戦国時代無敗の義将・上杉謙信は曹洞宗と真言密教の信者で北方を守護する毘沙門天を篤あつく信奉し、その気高い義の心で敵までも魅了した。

糸魚川(いといがわ)には、『翡翠(ひすい)勾玉(まがたま)信仰』があり、奴奈川(ぬながわ)姫と大国主命(おおくにぬしのみこと)伝説が古来より地元の人々の精神性の根幹に根付いている。この地を「日本の霊性の原点」と言う哲学者や宗教学者がいるのも頷(うなず)ける。それほど心的で神秘にみちた独自の土着性なのである。