高田城築城の地に選ばれた高田菩提(ぼだい) が原(はら)は、関川・矢代川・青田川・儀明川(ぎみようがわ)など自然の水系を生かして外堀を整備することが出来る好適地でもあった。
また幕府は築城に当たって名だたる藩主たちに普請を命じた。伊達政宗、上杉景勝(かげかつ)、蒲生忠郷(たださと)、前田利常、最上家親、佐竹義宣(よしのぶ)、小笠原秀政、南部利直、鳥居成次、村上義明、溝口宣勝(のぶかつ)、真田信之、仙石秀久ら錚々(そうそう)たる十三の大名たちである。
いわゆるこの「天下普請」は一日最大で六万人規模の動員をかけ、わずか四カ月足らずで築造するほど家康の威光を意識した城であったことがうかがえる。
高田城の特徴は折衷式という構造で、本丸を中心に二の丸で囲み、三の丸を付け足す形となっている。本丸は東西南北ともに二町(約二二〇メートル)ほどの広さで、土塁は三カ所の門口を挟み、全長十町(約一キロ)にもおよぶ全面囲み土塁である。
なかでも目に飛び込んでくるのが『三重櫓(さんじゆうやぐら)』と『極楽橋(ごくらくばし)』である。関が原直後ということもあり、この時期に築城されたすべての城には天守閣はつくられていないが、一見、天守閣かと見まがうばかりの『三重櫓』が本丸西南の隅に構えている。
望楼(ぼうろう)形式の櫓で基壇(きだん)造り、東西南北約五間(約九メートル)櫓の高さ約八間(約十四・五メートル)、入母屋(いりもや)と寄棟(よせむね)づくりで、瓦は二万四三八〇枚使用している。まさに高田城の象徴である。
そして正門の本城御門から入る内堀に架けられた見事な木製の太鼓橋、『極楽橋』は当時の町歌に歌われたほどの美観を備えた橋である。この高田城を称して「朝日が昇るがごとく輝く城・高陽(こうよう)城」という雅名をもっていたほどである。
なぜ家康が越後高田にここまでの美城をつくらせたかというと、急発展した新田開発に加え、佐渡の金銀山の輸送路の安全な確保を考えていたことがあげられる。また、加賀の前田家、出羽の上杉家を監視し抑えておくため越後を一族で固める必要があり、徳川家にとってはこの地は最重要の防衛線であった。
その証しに寛永十四年(一六三七)、銭貨を鋳造できる唯一の機関「銭座(ぜにざ)」を高田城下に設置している。全国で八カ所しかない銭座を高田の地につくったことから、いかにこの地を重要視していたかがわかる。
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