「渉、ありがとうね」
「何が」
「いつも一緒にいてくれて」
「当たり前だよ」
千春は笑った。それからゆっくりと、手術室に入っていった。
渉は待合室の椅子に座った。壁を見た。時計を見た。また壁を見た。
長い時間が経った。
担当の助産師が出てきた。
「赤ちゃん、生まれました。女の子です。元気ですよ」
渉は立ち上がった。よかった、と思った。全身から力が抜けるような感覚だった。
「妻は」
助産師の顔が、一瞬だけ曇った。
「奥様の肺動脈圧が、出産直後に急上昇しまして。右心室への負担が非常に大きくなっています。循環器の先生方が対応中です」
渉の体が、固まった。
「会えますか」
「今は難しい状況で……」
「一言だけでも」
しばらくして、手術室の前まで連れていかれた。ドアが少し開いた。千春がベッドに横たわっていた。顔が白かった。酸素マスクがつけられていた。それでも、目が渉を探した。
「千春」
渉が呼ぶと、千春の目が渉を見つけた。
「……赤ちゃん」
千春がかすれた声で言った。
「見せて……」
助産師が赤ちゃんを抱いたまま、ドアに近づいた。千春の視線が赤ちゃんに向かった。
「……かわいい」
千春がそうつぶやいた。目が潤んでいた。
「後でゆっくり抱かせるから」と渉は言った。
「今は休んでて」
千春は渉をまっすぐ見た。消え入るような細い声で、でも振り絞るように、はっきり言った。
「……あおい、名前…葵がいい」
なんで、サプライズにするんじゃなかったの? なんで今、そんなまっすぐに伝えてくれたの? 渉はその答えが分かりかけて、分かりたくなくて、必死に声を出した。手術室に押し入ろうとする渉を看護師が抑えても、渉は声をかけつづけた。
「大丈夫だから」「後でちゃんと教えてよ」「千春、俺がいるから」
千春の目が、かすかに細くなった。笑おうとしているのだと、渉にはわかった。なぜか涙が流れた。
次回は10月3日(土)22時、ゴールドライフオンライン(GLO)内で公開いたします。
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その時、機械の音が変わった。医師と看護師が一斉に動きだし、手術室の外に出され…どのくらい経ったか、医師が出てきて「最善を尽くしましたが…奥様は…」
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父の携帯を見てしまった母…「昨日も最高に幸せだった…次いつ会えるかな」メールの送り主は、母の親友だった。母は黙ったまま動かず…
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