高井良はぞっとして思わず立ち上がった。ドアの外から声が聞こえたような気がしたのだ。彼は背中に寒気を感じながらおそるおそるドアに近づき、そっと開いて廊下に出た。だが薄暗い廊下には誰もいなかった。

「気のせいか……」

高井良は再び席に戻り、再び考えを巡らそうとした。

「本当にくだらない」

「えっ!」

高井良は再び跳び上がった。今度ははっきりと声が聞こえたのだ。ガタガタと震える体を何とか抑えつつ、震える手でドアノブを掴み、勢いよくドアを開いた。しかし、やはり廊下には誰もいなかった。

「一体何なんだ……?」

彼が再び席に戻ろうとした時だった。

「うわあああああああああ!」

高井良は悲鳴を上げ、後ろに飛びすさった勢いで転倒し、激しく尻餅をついた。何故なら2つ並んでいるロッカーの右側の扉が勢いよく開いて、中から頭がもじゃもじゃで痩せぎすの男が飛び出してきたからである。

「誰だあ!」

「誰だとは失礼な。それが初めて会う上司に向かって言う言葉か。最近の若い奴は礼儀がなっていないな」

黒縁の丸眼鏡をかけ、ノーネクタイの黒いスーツを着た小鬼のような男が言った。

「上司……ひょっとしてあなたが木曽天蓋さんですか?」

「いかにも私が木曽天蓋である」

高井良はようやく立ち上がった。

「初めまして。僕は高井良悠です。ていうか、ロッカーの中で一体何してたんですか?」

「何をしていた? 私はここ1週間このロッカーの中に住んでいたのだ。だから自己紹介されなくても君のことはよく知っている」

「い、い、い、1週間ロッカーの中に? どうして」

「もちろん君のことを観察するためだ。新入りは東大出のエリートと聞いたが、その素性が確かかどうかは分からない。場合によってはKGBのスパイということもあり得るからな」

「KGB? そんなわけないでしょ。KGBは1991年に解散しています」

「表向きはな。しかしロシアのプーチン大統領がKGBの諜報員であったことは知っているだろう。KGBをこよなく愛していたプーチン氏がそう簡単に組織を解散させると思うかね。KGBは名前を変えて現在は闇の組織として世界で暗躍している。ロシアの反体制の人物が海外で毒殺されたニュースは聞いたことがあるだろう。それを請け負っているのが旧KGBだ」

「そうだとしても僕がKGBなわけないでしょ。それに木曽さんはKGBに命を狙われるようなスパイ活動でもしたんですか?」

「いや、特にない」

「じゃあ関係ないじゃないですか」

「今のところはなくても今後彼らが日本で事件を起こそうと思えば、私のような優秀な人間は必ず彼らの邪魔になってくる。だから私は常に用心を怠らないのだ」

「それで、僕の容疑は晴れたんですか?」

「もちろんだ。私はロッカーの中から君の言動をつぶさに観察していたが、あのような間抜けぶりではどう考えてもKGBのスパイは無理だという結論に達した。私は基本的に利口な人間は信用しないが、君は実に信用に足る人物だ。それが分かったからこそ今こうして出てきたわけだ」