【前回の記事を読む】「黄色人種は脅威」と説いたドイツ皇帝・ウィルヘルム2世…日本で捕虜となったドイツ兵は、徳島県の収容所で“人間”として扱われ……
第一部
第二章 同行二人
黄禍論と俘虜収容所
この庭に触発された高揚感は歩くことに安堵感を与えて自分の行動を承認し、自分が遍路によってなにかを得たかのように錯覚させる。
そして、こうした遍路者たちの心理を利用して、札所寺の位置間隔や順路が決められ、庭の人工美が凝らされて、遍路のお膳立てがつくられている。
こうしたお膳立てが行き届けば届くほど遍路者たちは自分の頭で考えるのをやめ、身体的な達成感や安堵感にもとづいて心情的論理に陥り、心の真実に近づいていると信じつつ高野山学侶衆がつくった弘法大師信仰へと引き寄せられ、取り込まれてゆく。
しかし、自己反省はこうしたお膳立てに乗った高揚感やなにか自分以外のものに自分を委ねてできることではなく、自分の頭脳を使い自分に正直であることでしかできない孤独な作業で、妥協を許さない心の勇気が必要だ。
そのことを忘れては家族の絆を取り戻し、今後の生き方の探求などできない、そう私は自分に云いきかせる。
日常を離れて未知の道を歩く、それだけで浮き立つように楽しく、自分を取り戻すという懸案を実際に果たしているという満足感もある。
しかし、心のどこかに自分の心を見つめていないという不足感があり、それは例えば時間の心配や周囲の人たちの思惑、彼らへの配慮などが絡み合った世間的意識(「世間様」信仰)から自分を解放し切れていないからだ。
自分を取り戻そうと願いながら、自分が罹っている諸呪縛がどこに由来するかを見極めるスタンス、それらを心に対象化した視座ができていないからだ。
まだ歩きはじめで、歩きながらする思考に慣れていない所為(せい)もあり、とりあえず、この「心の路」を歩く旅に出たときの発心を思い出しておけばよい。