はじめに――耄耋(ぼうてつ)の根蔕(こんたい)
人間は齢を授かっただけでは老いない。
老いを自覚した時に老いる。
老いるということは不思議なものである。
ただ年齢が高くなるだけではない。
老いという不思議な世界が体験できる。
では、人間はなぜ老いるのだろうか?
それは、人間も生き物であるから。
生き物が老いるとはどういうことなのか?
生き物は細胞でできている。
細胞には細胞分裂のできる回数に限りがあり、寿命が定められている。どうやら生命の設計図でもあるDNAの複製転写能力に限界があるためのようだ。
野生の状態では、多くの生き物は老いる前に死んでしまう。子孫を残してから死ぬものもいれば、他の生き物に捕食されるものもいる。また不慮の事故死もあるだろう。
しかし、人間以外の生き物でも動物園の動物やペットは、人為的に適当な休養と栄養を与え、健康管理を十分に行えば、老いてから死ぬことができる。
我が家の愛犬だったラブラドールレトリバー「ラブちゃん」も十六歳まで生きたが、老犬になったという感じはあまりしなかった。でも最期は四つ足で立てなくなり、大の字になって命を終えた。
大往生であった。
老いとは本当に不思議なものである。
また、年を取ることと、老いることとは必ずしも一致はしない。それは生理学的には、加齢と老化現象が異なるからだと言われている。
加齢は万人に平等だが、老化現象は緩徐(かんじょ)進行的で、バラツキがあり、個人差も大きい。これもDNAの為せる業と思えば、生命の老化現象はまさに不可思議としかいいようがない。
それでも、一定の年齢を過ぎれば、誰にでも老いの兆しがさなきだに忍び寄る。
されど、老いてみなければわからないことがたくさんあり、わたしたちが学べることも多い。
そう教えてくれたのが、父のことばだった。
「老いもまた慶ばしからずや」
ん?……。
なんということであろう。
老いが慶ばしいとは!
わたしも姿形は確かに老いてきたように思える。
それは、「耄(ぼう)」と言うらしい。
やがて老いの境地に至れば「耋(てつ)」となるのであろう。
「耄」も「耋」も老いたという意味なのだ。
杉田玄白は、八十四歳の時に、自らの耄耋について『耄耋(ぼうてつ)独語(どくご)』を著している(杉田玄白『耄耋獨語』 日本の名著22 中央公論社 一九七一)。
概ね「耄」は七十~八十歳、「耋」は八十~九十歳を言う。
では、「根蔕(こんたい)」とは何か。
老子の言葉に、「根(こん)を深くし柢(てい)を固くす」(蜂屋邦夫訳註『老子』 岩波文庫 二〇一二)という記述がある。
「根」は傍根(ぼうこん)で四方に伸びた根、「柢」は主根で真っ直ぐ下に伸びた根である。また、「柢」は「蔕」(ヘタ/タイ/テイ)とも書くが、その場合は果実と枝や茎とをつなぐ「ヘタ」を言う。その二字をとって「根蔕」(ネとヘタ)と並べることで「根っことへた、物事の土台、ねもと」という意味にした。
結局、「耄耋の根蔕」とは、「老いの寄る辺」とでも言っておこう。
寄る辺なき人生ほど不確かなものはない。
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