はじめのはじまり
老いというものは不思議なものだ。
いつの間にか忍び寄ってくる。
ふと気づけば
目はくぼみ、かすんで、蚊が飛び交う。
耳が遠くなれば、蝉(せみ)も鳴いて、えっえっと聞き返す。
霜雪の頭も冬支度、腰も折れ、膝も曲がる。
肌はくすみ、しみ、いぼ、皺(しわ)がよる。
歯は黄ばみ、朽ちて、残るは歯茎ばかり。
立てばよっこらしょ、座ればどっこいしょ。
歩く姿は、百合の花ならぬ、蟹(かに)の股。
度忘れ、あの人、この人、みな代名詞。
家の鍵、かけたかどうかも、わからない。
顔を洗い、メガネがないと、頭に置き忘れ。
「もう、だちゃかんわ」
これらはすべて誰もが経験する老いの現実ではないだろうか。
「だちゃかん」とは、金沢で暮らすようになってよく聞かれる言葉で、どうも、「埒が明かない、事がうまく運ばない」というような意味があるらしい。
齢(よわい)を授かること幾星霜。いま古希と喜寿のはざまに佇んでいる。仕事を退き、無所属の身となったことで、何かが変わろうとしている。
退職前までは、人づきあいや社会とのつながり、蓄財などを人生の寄る辺としていたことは間違いない。それは、人間であれば誰もが頼りとする世間(せけん)通途(つうず)の道ではないのだろうか。しかし、そのような世間通途の道はあまりにも人間的であり、当たり前のこととしかとらえられていない。
ところが、世間通途の道は如何に脆(もろ)く、儚(はかな)く、頼りないものであるかということに気づかされた。そこには本当の真実はないという視点に立てたからである。
今まで見えていなかったものが見えてくるという、人生における新たな気づきであった。
すなわち、それは究極の人間らしくない生き方にこそ真実があるという逆説的信知でもあった。
それを教えてくれたのが、義父(以下、父と省略)の人生百二年からの問いであった。
これから、その物語を紡いでいきたい。
「老いとは使い古した袋を懐かしむのではなく、
新たな袋の発見の始まりではないのだろうか」