「お母さん、起きて、お願い、お願い——」

渉がどうやって救急車を呼んだのか、自分でも覚えていない。「お母さんが冷たいです」と電話で言ったことだけは覚えている。

母は、搬送先の病院で息を引き取った。

医師が「ご臨終です」と言った瞬間、世界の音が一度ぜんぶ消えた。

葬儀は、3日後に行われた。

父が現れた。喪主席に座り、親戚たちに頭を下げていた。渉は父の顔を見て、何かが体の奥で、ぴしりと音を立てて割れた。

葬儀の途中で、ドアが開いた。

美代子が入ってきた。黒い喪服を着て、ハンカチで顔を押さえて。

息が止まった。あの夕方、母が「いつから」と問いつめた相手だった。

美代子が静かに焼香台に向かおうとした。父が立ち上がりかけた。母方の祖母が「あんたッ」と声を上げた。

渉は走り出した。

廊下を走って、美代子の前に立った。9歳の体で、両手を広げた。

「来ないで!」

喉が裂けるくらいの声が出た。

美代子が立ち止まった。顔が歪んだ。何かを言おうとして、唇を震わせた。でも何も言わずに、踵を返して廊下を出ていった。

誰も渉を止めなかった。

渉は棺の前に戻った。母の顔を見た。化粧をされていて、母らしくなかった。

(お母さん)

返事はなかった。当たり前だ。もう二度と、返事は返ってこない。

涙がぼろぼろこぼれた。止まらなかった。喉が裂けそうなくらい泣いた。お母さん、お母さん、お母さん。呼んでも答えがないのに、何度でも呼んだ。

父が近づいてきた。「渉……」と肩に手を置こうとした。