【前回の記事を読む】父の携帯を見てしまった母…「昨日も最高に幸せだった…次いつ会えるかな」メールの送り主は、母の親友だった。母は黙ったまま動かず…
1.
美代子は何度かうつむき、もう一度「ごめんなさい」と言って、出ていった。お土産のタッパーは、玄関に置きっぱなしだった。
ドアが閉まる音がした。
渉は、思わず台所から出た。床に、こぼれたお茶が小さな丸を作っていた。
「お母さん、僕、雑巾」
渉は走って雑巾を取ってきて、母の足元にしゃがんだ。
「触らないで」
低い声だった。
母が、無意識に腕を振った。雑巾を持っていない方の腕が、勢いで横に流れた。それが渉の肩に当たった。
渉は、しゃがんだ姿勢から、後ろに倒れた。テーブルの角に額をぶつけた。視界が、白く弾けた。額に、ぬるい感触が広がった。
「渉——」
母がハッと顔を歪めた。両手で渉を抱き起こした。
「ごめん、渉。ごめん、ごめん、ごめんなさい」
額から、血が、ぽつぽつと流れていた。深い傷ではなかった。でも、Tシャツに赤いしずくが広がっていた。
「お母さん、痛くないよ、痛くないよ」
渉は必死に言った。母を泣かせたくなかった。自分が痛いことより、母が悲しむことの方が、ずっと怖かった。
母は、渉の額にハンカチを当てて、両手で抱きしめた。母の体が激しく震えていた。
(お父さんと美代子のせいだ)
8歳の渉は、母の腕の中で、はっきりと心の中で言った。