「お母さん、病院、行こう」
母は首を横に振った。
「大丈夫。大丈夫だから」
大丈夫じゃない、と9歳の渉でもわかっていた。
夕方、学校から帰ると、台所に母が立っていることがあった。エプロンをつけて、空の鍋の前にぼんやり立っている。
「ごめん、渉。今日……何作ろうか、考えてたんだけど」
母はそのまま椅子に座り込んで、動かなくなった。
そういう夜は、渉が近くのコンビニに走った。母の好きな鮭おにぎりと、温かいお茶を買って帰った。
「はい、お母さんの分」
「……ありがとう。渉に買いに行かせてごめんね」
本当はお母さんに食べてほしかった。母の頬骨がはっきり見えるようになっていた。買ってきたおにぎりを、母は半分だけ食べて「ごちそうさま」と言った。残った半分を、渉は黙って自分の口に入れた。冷たくて、しょっぱくて、なんの味もしなかった。
ある夜、母が渉の部屋に入ってきた。
「渉、お母さん、渉のこと、大好きよ」
唐突だった。母は笑っていた。でもその目が濡れていた。
「……僕も大好きだよ、お母さんのこと」
母は渉をぎゅっと抱きしめた。痛いくらい強い力だった。服の上からでも肋骨の凹凸がわかった。シャンプーの匂いの奥に、酸っぱい薬の匂いがした。それが、母と最後にちゃんと話した夜だった。
朝になっても、母は起きてこなかった。
渉はパンを1枚自分でトーストして食べた。母の部屋のドアは閉まっていた。ノックしようとして、やめた。疲れているんだろう、と思った。あの判断を、その後の二十数年、渉は何度も悔やみ続けることになる。
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