父はその日から2週間帰ってこなかった。
母は変わった。化粧をしなくなった。ぼさぼさのまま台所に立った。1日に何回も鏡を見ていた人なのに、鏡の前に立たなくなった。
ある日、渉は母の鏡台の引き出しを覗いてしまった。引き出しの奥に、結婚式の写真があった。父と母と、生まれたばかりの渉が写っている写真。父の顔の部分が、ボールペンで何度も何度も、紙が破れるまで塗りつぶされていた。
渉はその写真をそっと戻した。誰にも言わなかった。
父が週末に帰ってくる日は、家の空気が固まった。食卓で渉だけが、「今日学校でさ」と話し続けた。誰も笑わなかった。本当は笑いたくないときでも、渉は笑えるようになった。
あの日から1か月経った日の夜、母が渉の部屋に来た。目が赤くて、頬が濡れていた。
「渉。パパとは……しばらく、別々に暮らすことになったから」
声が途切れた。「ごめんね、渉。ごめんね……」
何がごめんなのか、渉にはわからなかった。悪いのは父と美代子なのに、なぜお母さんが頭を下げるのか。
「お母さん、泣かないで」
言った瞬間、自分の声まで震えた。母の手をそっと握った。指の関節が浮いていた。前はもっと丸くて温かかったのに、骨と皮ばかりになっていた。
あの冬が、渉にとって最後の「ふつうの日々」だった。
*
あの頃の母は、少しずつ壊れていった。
最初は「疲れてる」だった。次に「頭が痛い」になった。やがて、朝起きられない日が増えた。
「お母さん、学校行ってくるよ」
「……うん、いってらっしゃい」
声だけが返ってくる。布団から出てこない。渉は自分でランドセルを背負って、自分で鍵を閉めた。閉めるとき、振り返ることができなかった。振り返ったら、泣いてしまいそうだったから。
給食袋を忘れた日、家まで取りに帰った。鍵を開けて入ると、玄関に母がいた。靴を履こうとしたまま、廊下に座り込んでいた。「お母さん」と呼んでも、顔を上げなかった。よく見ると、母の足元に黄色いものが広がっていた。胃液だった。
渉はランドセルを下ろし、雑巾を取りに走った。母の足元を黙って拭いた。母の唇に、白い粉のようなものがついていた。薬を飲もうとして、こぼしたのかもしれなかった。