渉が小学2年生だったとき、父の靴が玄関に並ばなくなった。
最初は出張、という話だった。でも渉にはわかった。父が帰らない夜、台所で母が声を殺して泣いていたから。水道の水が出しっぱなしになっていた。水音で泣き声を消そうとしていたのだ。
ある日、母の親友の美代子が家に来た。高校時代からの友達で、渉も赤ん坊の頃から抱っこしてもらった人だった。前は好きだった。
その日の朝、父は出張だと言って出かけていった。
携帯電話をリビングのテーブルに置き忘れたままだった。
母はそれをしばらく眺めてから、充電器の隣にそっと置いた。昼前、テーブルの携帯が短く震えた。小窓が青白く光った。
母は新聞をたたむ手を止めた。小窓に、差出人の名前だけが浮かんでいた。
「美代子」
名前が、見えた。
母は手を伸ばして、携帯を開いてしまった。カチカチと音を立て、母の顔に青白い光が映った。
「昨日のホテルも最高に幸せだった。ずっとあなたの事ばかり考えてる…次、いつ会えるかな」
母は、しばらく動かなかった。携帯を握りしめた、指の関節が白くなっていた。
夕方、美代子が訪ねてきた。「お惣菜を作りすぎたから」と、タッパーを抱えて。普段通りの様子で、玄関で笑っていた。
「明子、変わりない?」
「うん」
母は普段通り、お茶を出した。リビングのテーブルを挟んで座った。最初の会話は当たり障りのないものだった。
途中で、母が席を立った。書斎から、父の携帯を取ってきた。テーブルの真ん中に置いた。画面を美代子のほうに向けて。