1.
葵が泣き止まない夜というのは、必ずある。
「ほら、ほら。泣かなくていいよ」
中村渉は薄暗いリビングで、背中をトントンと叩きながら、1歳3か月の娘を縦に抱いた。アパートの薄い壁越しに、外の雨音が聞こえる。時計は夜の11時を回っていた。
「葵、ちゃんと寝ないと明日保育園だぞ」
もちろん葵には関係ない。ぐずった声を上げながら、渉のTシャツをぎゅっと掴んでいる。その小さな指の力が、なぜかいつも胸の奥にまで届く。お前だけは、絶対に手放さない。声に出さない約束を、渉は毎晩、葵の頭のてっぺんで繰り返す。
渉は32歳だ。この狭いアパートで、葵と2人で暮らしている。
葵の泣き声が落ち着いてきた。渉はそっと布団に寝かせた。小さな寝顔に、時々、妻・千春の面影を重ねてしまう。
(千春、ちゃんと育ててるよ)
声に出したら泣いてしまうから、いつも心の中だけで話しかける。もう1年以上が経っていた。
台所で缶ビールを開けた。情けない、と思う。32歳の男が、暗い台所で1人、死んだ妻のことを考えている。
こういう夜に、渉はよく子供の頃のことを思い出す。母の細い背中を。母が最後まで震えていた、あの夕方のことを。
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