【前回記事を読む】藤原家の流れか、悪党出身か…出自不明の「蒲生氏」がなぜ、幕府重臣の名から1字を与えられたのか。将軍を自城に迎える構想も…

序章 日野商人のふるさと

二 蒲生氏の時代

ところで彼は、貞秀という武名より「知閑」と号する文人としての評価の方が高いのではあるまいか。

彼の後妻は西坊城顕長の娘の言子。西坊城家は大学頭を世襲する公家である。

彼女は後土御門天皇の内侍に召されて新内侍と呼ばれていた元女官であり、貞秀は彼女を通して京の文化を吸収。

室町後期の歌集『新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)』に五首が選ばれるなど、歌人として名を残すのである。

後世、元禄八年(一六九五)刊行の『蒲生軍記』でも「武芸はいふに及ばず、歌道にも達したり」と文武両道を讃えられ、宝暦二年(一七五二)刊行の奇談集『新編奇怪談』にも登場するなど、江戸時代でも知られた歌人であったことが窺える。

「往き通う都のつとと山入の手もとに折れる山の早蕨」

後援者たる伊勢氏を訪ねるときか、妻の実家への手土産か。都へは何度も上り、その文化になじもうとしたに違いない。

こうした文治の領主のもとで、日野の文化は育まれたのであろう。

また、今に伝わる日野の名物、日野菜漬け発見の武将としても伝わる。

日野の地で根が紅色の珍しい野菜を漬けさせたところ美味につき、公卿で歌人の飛鳥井雅親に贈ったところ、気に入られて後柏原天皇にも献上された。

天皇はこれを喜び「近江なる檜物の里の桜漬けこれや小春のしるしなるらむ」との歌を貞秀に贈る。

ちなみに日野は、平安時代から檜物の里であったと伝わっている。