蒲生氏は貞秀の死後、彼の長男、秀行が早世。孫の秀紀が継ぐも幼少ゆえ、次男の高郷派と秀紀派が争うこととなる。
蒲生家を制したのは高郷であった。時代は大きく動こうとしていた。
貞秀の時代はまだ何とか室町幕府の統制力はあったものの、有力守護大名は幕府に服さず、守護制度が機能不全となる兆しが見え隠れする時代となった。財と武力を持つ者は、隙をついて勢力を伸ばそうとする。
この蒲生家の内紛も単なる相続争いではなく、幕府寄りの秀紀派と六角寄りの高郷派との対立と見ることもできる。
結果、六角佐々木定頼の仲裁で秀紀から高郷に蒲生家の家督を譲る和睦が成立。
高郷の子の定秀も六角佐々木定頼に仕え、忠節を尽くすこととなる。
定秀の「定」は定頼からか。音羽城は破却され、その後、秀紀は謀殺されて生涯を終える。
三 したたか蒲生氏
定秀は現在にいたる日野町の原型となる、日野城下町の建設を始める。
まず御代参街道と鮎川道の結節点であり、日野市庭の所在地でもある大窪を商業地とし、両道をメイン道路として天文二年(一五三三)頃、拠点となる日野城(中野城)を築く。
城下町の特徴は町内の道路を直線とせず、わざと屈折させ、武者隠し道を造るなど、戦国時代の築城の先取りをしている。その上で蒲生氏が尊崇する綿向神社においては、鮎川道より別れて参道をつけ、町割りから外した。
先の蒲生氏の内紛につけ入り、日野牧に攻め入った六角佐々木勢に同社の主殿を焼かれたことを教訓に、戦火の及ばないようにしたと思われる。
さらに戦いに備えて、武器武具に関する鍛冶・鉄砲・弓矢の職人を一カ所にまとめ、城の近くに配置した。
商業対策も行い、日野椀の製造は城下町の成立とともに始められた。
私の注目は、この鉄砲である。
鉄砲伝来は天文一二年(一五四三)。その十二年後、日野で製造させている。
先進の気鋭は戦国大名を目指す定秀の野心からか。日野の鍛冶技術が優れていたからか。その開発は、技術や意欲だけで成せるものではない。莫大な費用がかかる。
まだ弱小土豪であった蒲生氏にその財力はあったのだろうか。