【前回記事を読む】なぜか地元の特産品とされる「日野絹」——「日野にはそんな歴史はない。」内池村(現日野町)出身者が断言する理由は…
序章 日野商人のふるさと
一 必佐郷から日野牧へ
奈良時代には三世一身法が養老七年(七二三)、墾田永年私財法が天平一五年(七四三)に制定され、十世紀に入ると、日本列島各地は開発開墾の競争の時代に入る。力ある者が開墾に乗り出すのである。近江において、それを強烈に推し進めたのが延暦寺(滋賀県大津市)であった。その結果、十一世紀には延暦寺は一大荘園領主となり、時の最高権力者の手に負えぬ存在となった。
そうした中で室町時代、応永三〇年(一四二三)の必都佐神社文書によると、必都佐神社に日吉神社(滋賀県大津市)の一社である十禅師社が祭祀されている。このことから推せば必佐郷と延暦寺の間に「何かがあった」と思わねばなるまい。
また、内池の北側にある出雲川南岸の畑地の名は園城(おんじょう)と言い、出雲川にかかる橋が園城橋である。こちらは園城寺(三井寺)との間に何かがあったのか。
水田も、そして放牧地も拡大され、やがて日野牧の中心は大窪(旧日野町)あたりに移る。
これは道路との関わりではなかろうか。中世の道路は自然の制約を避けなければならない。山麓を縫って山の間を拓いて、川の流れを利用して造られる。
日野牧の主幹道路は、東海道(頓宮)と中山道(小幡)を結ぶ御代参街道(当時この名はまだない)である。そしてその補完道として大窪から甲賀を経て伊勢に至る鮎川道、さらに鈴鹿山脈を縫って千草(ちくさ)峠や八風(はっぷう)峠を越えて伊勢に至る道がある。
これらの道の結節点となるのが大窪あたりとなる。交通の要衝が邑(むら)の中心となるのは今も昔も変わらない。日野市庭(市場)も大窪あたりであったらしい。遠方からの売買人のための宿泊施設もあっただろう。
甲津畑(旧永源寺町・現東近江市)の藤切神社は、千草峠の護神とされているが、その神社の再建にあたり、費用を負担した人や村の記録、藤切神社棟札銘文(応永二年・一三九五)によれば、鎮座地の市原村は当然としても、日野牧地区と思われる中郷・佐久良・北脇・瓜生津等の現国道三〇七号線沿いの村々、さらに西明寺・熊野・原・大瓦(川原)のような鈴鹿山麓の村々の名がある。開発は完了した平野部から僻地、山間部へと向かう。
時代は己の手を汚さず、汗を流さず、利得のみを求める荘園領主に代わって、自ら汗して闘って拓いた土地一所を、命を懸けて守るために武装農民がリーダーのもとで結束し、争う時代に移る。
彼らはその守りの拠点を丘(山城)に定めた。こうした時代の流れに沿ったのか、かつては必佐郷十禅師を拠点にしたと推される蒲生氏が音羽城を、小倉氏が佐久良城を築く。比較的、里に近い両城は、私も訪れたことがあるが、日野の山城は旧東桜村や南必都佐村に点在する。
その中の一つ、園城の城は、調査書の図形から推せば、そこそこの城であるが、私は行く道も知らない。園城の姓は私が住む内池にもあるが中之郷に多い。甲賀から南必都佐の西部に勢力を伸ばした儀俄氏(南北朝・室町時代の武将)の名残りか、深山口(みやまぐち)(旧南必都佐村、現日野町)に儀俄姓が残っている。
そして日野牧は、ゆっくりと刻が流れた必佐郷の時代から、険しい戦いの時代へと入るのである。