はじめに
再び反魂香を焚く
天明八年(一七八八)頃の版とされる『和漢絹布重宝記』に「総じて日野絹という元は 江州日野より出た絹に似たるにおひて名となす」とある。
大方の人は「そうなのか」とお思いになるだろう。だが私は「それはおかしい」と疑問符をつける。
なぜなら、私は旧くから内池村(現日野町)に在住した家の生れ育ちである。日野にはなにがしかの特産品(日野椀、日野製薬)はあるが、断じて機業地(絹繊物)ではないことを承知しているからである。
後述するが絹を織るのは、各工程それぞれに技術がある。それは旧来の技術を基に長い研磨の歴史があり、その上に当代の工夫・研究を重ねて織られるのである。
日野にはそうした歴史はない。ではなぜ「日野絹」というブランド名がついたのか。『近江蒲生郡志』に記された日野商人の営業種を見れば一番多いのは醸造業(酒・醤油・味噌)である。
これらの業種は、そこそこの資金と揺るぎない信用がなければ起業出来るものではない。酒は大昔からあり、庶民はともかく権力者や富者は大いに楽しんだ。
その酒は、江戸では専ら灘等の上り酒が中心で、それの入手困難な田舎では、地酒が愛されたのであろう。
特に経済成長著しい江戸中後期には愛飲者は農民・庶民に及んだであろうから、成長産業として酒造株は人気があったに違いない。
醤油も同様である。京都で生れ、紀州で商品化され、黒潮に乗って房州に流れついた醤油醸造技術は、原料に恵まれていることからあっという間に普及した。江戸末期には下り物の醤油市場の大方は、関東産の醤油にとって代わられている。
醸造業を始めたということは関東の地に根を下ろしたことになる。それは享保の頃で、その時分から経済・文化のすべてにおいて上方に比べて後進地であった関東地方がようやく成長期を迎える。
商機の到来である。それは都市の大資本家のみならず、零細日野商人にとっても。この書ではその道について書き記したいと思う。前著『反魂香を聞きつつ』では近江日野商人と浄土真宗について著したが、再び反魂香を焚き、近江日野商人と絹の道をたどろうと思う。
序章 日野商人のふるさと