一 必佐郷から日野牧へ

温暖な気候と、豊かな水に恵まれた近江(現滋賀県)は、早くから拓けた地方と言える。

昨秋(二〇一三)、私は友人たちとともに、久しぶりに里帰りした日本最大の銅鐸の見学に、野洲市歴史民俗博物館を訪れ、その威容に驚嘆した。

まさに百聞は一見に如かず、であった。誰が何のために製作したのか、その技術は、その資材の調達は、要した人数は。私の問いかけに銅鐸は答えてくれなかった。

琵琶湖畔の野洲とは異なり、日野川の上流に近く、綿向山(わたむきやま)を東に仰ぎ、丘陵に囲まれた日野に人が住むようになり、水田が開発されたのは弥生後期とも言われるが、史書にその名が出るのは承平年間(九三一〜九三八)に源順が編纂した「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」の蒲生郡の中の「必佐郷」である。

私が生まれた日野町(旧北必都佐村)大字内池(うちいけ)のあたり一帯は、ひさ(日差・陽謝)、ひさの(日差の野)と呼ばれていた。

日野川の水利があり、周辺の山は低く、綿向山に昇る陽を仰ぎ、陽当たりのよいこのあたりは、拓く条件が揃っている。「ひさ」「ひさの」が、ひっさ(必佐)となったらしい。

日野川をはさんで旧村名は、南必都佐(ひっさ)・北必都佐と言い、私の母校は必佐小学校である。

必佐小学校の裏を流れるのが出雲川で、出雲川は日野川と合流する。島根県にも日野川がある。

その必佐郷とは、日野川の流域の現在の字名、十禅師(じゅうぜんじ)・猫田・内池・三十坪(みそつ)・小谷・増田(ました)・石原・小御門(こみかど)(以上、北必都佐)、別所・清田(南必都佐)のあたりであったらしい。

その必佐郷の郷神は、十禅師に鎮座する「必都佐神社」である。十禅師には久野・久村姓が多い。

流域が水田化されると、次に馬が飼育され、その周辺の草地や原野、低丘地で放牧されるようになった。「ひっさの牧」、「ひの牧」、やがて「日野牧」と呼ばれるようになった次第である。

馬は移動・輸送の大切な担い手である。都に近い日野牧の馬の需要は大きく、放牧地は必佐郷を越えて、日野川の下流から上流へ、平地から高地へと拡大していった。

 

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