二 蒲生氏の時代
蒲生氏の出自は明らかではない。藤原秀郷の流れ、源頼朝の家人などの説もある一方、南北朝時代に各地に現れた悪党・土豪との説もある。
蒲生系図には十二代当主・秀貞―十三代当主・秀綱―十四代当主・貞秀が記されるが、蒲生氏と日野の関係が明確になるのは、秀貞のときからである。必都佐神社文書、応永二九年(一四二二)一二月七日、秀貞は必都佐郷内十禅師の土地二段を三木勘解左衛門に売却し、三木氏は父母追善のため、十禅師の如法経道場に寄進している(後述)。
また同社文書に蒲生殿が銭十貫文を寄贈したとあるが、他者と比べて特別高額ではない。まだこの頃の蒲生氏は、必都佐郷内を制するほどの力は無かったと思われる。
蒲生氏の存在が史上に登場するのは、秀貞の孫の貞秀からである。秀綱に嗣子がおらず、秀綱の実弟で傍流・和田家を継いでいた貞秀が十四代当主として本家に迎えられた。その才幹を一族が認めたということであろう。
蒲生家中興の祖となる貞秀は、室町幕府の重臣、伊勢貞親の幕下の端に加わる。貞秀の「貞」は貞親の貞か。この頃、主君の名を一字もらう風習があったという。貞秀は伊勢氏からも見込まれた逸材であったという。以後、伊勢氏を後ろ盾として必都佐郷を越えた地域にも政治力を伸ばす。
たとえば、木綿荷をめぐる保内商人と伊勢商人との争いの解決、日野市庭における保内商人と横関商人との争いの裁定(後述)。さらには日野牧代官三木氏との戦い、これは大敗。六角佐々木氏の内紛にも立ち入り、各地で転戦する。
応仁の乱は応仁元年(一四六七)に始まるとされているが、この頃すでに貞秀は、拠点となる音羽城を築いて戦乱に備えている。延徳三年(一四九一)、六角佐々木氏討伐のため近江に出陣した足利義材に、蒲生郡内の所職名田を安堵(所領田地を承認)され、場合によっては将軍を音羽城に迎え入れることも考えていたらしい。
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