【前回の記事を読む】第1子は早逝し、女児が続いた足利義政は、異母弟を9代将軍の後継候補にした…ところがその直後、妻の日野富子は男児を産み……

第一部 本能寺の変への道

戦国時代

日野富子そして応仁の乱

我が子を将軍職に就かせたい富子の工作が始まる。

その工作が、将軍候補者義視の後見人細川勝元と、義尚の後見人山名宗全との幕府管領間の対立を生み、戦争となった。

更に、幕府管領職の畠山家と斯波家の争いも同時に発生し、四派それぞれが、全国の支配下の武士団を京に応援として招集し、その数は万を超した。

戦争は十年間続き、火災が発生し、都は灰燼(かいじん)に帰し、庶民は悉く路頭に迷う有り様となった。

応仁の乱である。

こうした争いに便乗して、富子は各派首領に金を貸し付け、巨万の利益を得たと言われている。

この戦争は、従来室町幕府を支えていた全国統制システムを破壊した。戦国時代の始まりである。

それまで、幕府内には数人の管領大名がいて、各々管領大名別に統治すべき地方大名(守護大名)が決められていた。

その守護大名は委任された範囲の大名に、幕府からの命令の伝達、税の徴収・上納を行っていた。

応仁の乱の混乱を起因として、この統制力は破壊された。

武力に勝る大名は、勝手に、近隣の弱い大名を攻撃し、自己の領地化した。戦国時代の始まりである。

富子は八歳の我が子義尚を足利幕府第九代の将軍に立て、義尚が二十五歳で死亡した後、第十代将軍義稙(在位三年)、第十一代将軍義澄(就任時十四歳・在位十三年)の擁立にまで干渉し、五十七歳で生涯を閉じた。

富子の死後も、幕府を巻き込んだ大名間の争いは更に激化した。