祝賀大行進

国道を挟んだ対面のグラウンドから、金属バットの快音が聞こえる。

囲いのネットに「海上自衛隊グラウンド(訓練場)」の看板が掛かっている。「測量図」の同じ場所には「練兵場」と記されている。

通りを渡り、グラウンドの片隅からダイヤモンドを眺める。守備位置に散った子供たちが、コーチのノックの打球に懸命に飛びついている。その様子をベンチの脇から親御さんたちが見守っていた。

グラウンドは自衛隊の施設のようだが、民間にも開放しているようだ。「練兵場」だった時代に、ここで盛大な祝賀行事が行われた。

海軍の街である舞鶴には、受難ともいえる時代があった。

海軍省は大正十二(一九二三)年、主力艦の保有制限を定めたワシントン海軍軍縮条約の発効を受け、全国の軍港の規模を縮小した。

これにより舞鶴鎮守府は要港部に、舞鶴工廠は要港部工作部に降格となった。

舞廠は、京都府下最大の軍需工場として、七千人を超える従業員を雇用していたが、規模縮小によって、大正十四年までに、余剰人員となった二千百六十七人を解雇した。

駆逐艦の建造も年間二隻から一隻となり、舞鎮籍の軍艦「鹿島」と「香取」は解体、廃棄処分となった。

昭和五(一九三〇)年には、補助艦の保有比率を定めたロンドン海軍軍縮条約も締結され、舞鶴工作部はすでに三千三百三十人まで減っていた職工のうち、さらに六百四十四人を解雇した。

ワシントン軍縮条約以降の舞鶴経済の停滞は約十四年にも及んだが、状況は昭和十一年に好転する。

ワシントン、ロンドン両軍縮条約の年末の失効が確実となり、翌年から世界的な建艦競争の再開が見込まれたことから、舞鶴工作部は十一年七月一日に、工廠に再昇格した。

施設がかつての規模に復し、予算と人員が増えれば、街は活況をとり戻す。

工廠への再昇格は、舞鶴住民の悲願だった。

試し読み連載は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。

 

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