【前回記事を読む】潰れかけの旅館を救ったのは、女将の”ある投稿”だった。3万人に見られて「泣きました」の声が殺到…旅館を救った意外なものとは?
その唇に、もう一度だけ
年が明けた。
旅館の前の雪を掻きながら、よし子は白い息を吐いた。山あいの冬は厳しい。でも、去年の冬よりずっと温かい気がした。
(1年前、私はここを知らなかった。1年後、私はここで笑っている)
1月の終わり、美咲から電話があった。
「お母さん、聞いて。第一志望の大学、受かった」
「えっ――本当に?」
「本当。推薦で決まったの。来年から大学で観光学を勉強するの」
美咲は大学で観光について学び、将来は地方の観光業を支える仕事がしたいと言うようになっていた。藤乃屋のSNSを手伝ったことがきっかけだという。
「雅彦さんの旅館を手伝ってて思ったの。日本には藤乃屋みたいに素敵なのに知られてない場所がたくさんある。それを発信する仕事がしたいって」
よし子は電話口で泣いた。嬉しくて、誇らしくて、涙が止まらなかった。
「お父さんも喜んでるよ。きっと」
「うん。私もそう思う」
電話を切った後、仏壇の前で手を合わせた。正志の写真に向かって、小さく報告する。
「美咲、立派に育ちました。あなたの娘よ」
(正志、見えてる? 美咲がこんなに立派になったよ)
写真の中の正志は、いつもと同じ穏やかな顔で笑っていた。
2月。旅館は冬の閑散期だが、SNS効果でぽつぽつと予約が入っていた。雪見露天風呂の写真が評判を呼び、「死ぬまでに泊まりたい宿」というリストに藤乃屋が載ったのだ。
大輝が週末を利用して旅館に来ることが増えた。美咲とオンラインで打ち合わせをしながら、次の季節の宣伝戦略を練っている。義理の兄妹というにはまだぎこちないが、2人は少しずつ本当の家族のようになっていた。
千鶴は相変わらず縁側で編み物をしている。完成したおそろいのマフラーを、よし子と雅彦に巻いてくれた。紺と赤の二色。少し不格好だが、首に巻くと驚くほど温かかった。
「似合うわよ、2人とも」
千鶴が目を細めて笑った。
(お義母さん、ありがとうございます。このマフラー、ずっと大切にします)
節子は最近、新しい仲居の教育に力を入れている。SNSを見て応募してきた若い女性が2人、新たに加わった。節子の厳しい指導は健在で、よし子は「自分もああだったな」と苦笑した。
「あんたも最初はひどかったわよ。でも今じゃ立派な女将さんね」
節子にそう言われた時、よし子は心の底から嬉しかった。
(あの時の私は、本当に何もできなかったから。それが今は、女将さんって呼んでもらえている)
3月に入った。1年前、よし子がこの旅館にやってきた季節だ。
ある夜、雅彦がよし子の手を引いた。
「ちょっと来てほしい場所がある」
連れて行かれたのは、裏手の露天風呂だった。あの月夜に2人が初めてキスをした場所。冬の間は雪で閉鎖していたが、今日から春の営業再開だという。
「1番風呂は、女将の特権ですよ」
雅彦が悪戯っぽく笑った。
「2人で入るんですか?」
「嫌ですか」
「……嫌じゃないです」
(この人、悪戯っぽく笑う時がある。そういう顔、好きです)
顔が赤くなるのが分かった。49歳になっても、この人の前ではまだ恥ずかしくなる。
湯に浸かると、1年分の疲れが溶けていくようだった。空には去年と同じように月が浮かんでいる。丸い、明るい月だった。
「去年の今頃は、まだ赤の他人だったのにね」
「そうだな。あの時は、まさかこうなるとは思っていなかった」
「私もです。仲居の面接に来ただけだったのに。まさか旅館の女将になるなんて」
「人生は分からないものだ」