目頭が熱くなった。この1年間、いろいろなことがあった。何度も泣いた。何度もくじけそうになった。
でも、今こうして隣にこの人がいる。それだけで全部報われる気がした。
「私こそ。あなたに出会えて――」
言葉が続かなかった。代わりに涙が頬を伝った。
(1年間で、こんなにいろいろなことがあった。でも、全部あって良かった。全部あったから、今ここにいる)
雅彦がゆっくりと近づいてきた。1年前と同じように。湯気の中で、その顔がぼんやりと滲んでいる。
「その唇に、もう一度だけ」
雅彦が囁いた。
よし子は目を閉じた。温かい唇が触れた。1年前のあの夜よりも、ずっと深く、ずっと優しいキスだった。月明かりと湯けむりの中で、2人の影が一つに重なった。
唇が離れた時、よし子は笑っていた。涙を流しながら、笑っていた。
「もう一度だけ、なんて言わないでください」
「え?」
「何度でもしてください。明日も、明後日も、ずっと」
雅彦が笑った。声を上げて笑った。山あいの夜に、その笑い声が響いた。
(この笑い声が、好きだ。雅彦さんのこの笑い声が)
人生は48歳からだって始められる。遅すぎることなんて、何もない。
よし子は雅彦の肩にもたれかかり、月を見上げた。山の向こうから、春の風が吹き始めていた。
(ありがとう。正志に、美咲に、雅彦に、節子さんに、お義母さんに、みんなに——ありがとう)
目の前の月が、少し滲んで見えた。でも、泣いていても笑っていた。よし子は雅彦の肩に頬を寄せて、そっと目を閉じた。山の春の夜が、2人を包んでいた。
── 完 ──
本連載は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。
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