「1番風呂は、女将の特権ですよ」

雅彦が悪戯っぽく笑った。

「2人で入るんですか?」

「嫌ですか」

「……嫌じゃないです」

(この人、悪戯っぽく笑う時がある。そういう顔、好きです)

顔が赤くなるのが分かった。49歳になっても、この人の前ではまだ恥ずかしくなる。

湯に浸かると、1年分の疲れが溶けていくようだった。空には去年と同じように月が浮かんでいる。丸い、明るい月だった。

「去年の今頃は、まだ赤の他人だったのにね」

「そうだな。あの時は、まさかこうなるとは思っていなかった」

「私もです。仲居の面接に来ただけだったのに。まさか旅館の女将になるなんて」

「人生は分からないものだ」

雅彦が湯の中でよし子の手を取った。

「よし子さん」

「はい」

「あなたに出会えて、本当によかった。この旅館に来てくれて、ありがとう」

目頭が熱くなった。この1年間、いろいろなことがあった。何度も泣いた。何度もくじけそうになった。

でも、今こうして隣にこの人がいる。それだけで全部報われる気がした。

「私こそ。あなたに出会えて――」

言葉が続かなかった。代わりに涙が頬を伝った。

(1年間で、こんなにいろいろなことがあった。でも、全部あって良かった。全部あったから、今ここにいる)

雅彦がゆっくりと近づいてきた。1年前と同じように。湯気の中で、その顔がぼんやりと滲んでいる。

「その唇に、もう一度だけ」

雅彦が囁いた。

よし子は目を閉じた。温かい唇が触れた。1年前のあの夜よりも、ずっと深く、ずっと優しいキスだった。月明かりと湯けむりの中で、2人の影が一つに重なった。

唇が離れた時、よし子は笑っていた。涙を流しながら、笑っていた。

「もう一度だけ、なんて言わないでください」

「え?」

「何度でもしてください。明日も、明後日も、ずっと」

雅彦が笑った。声を上げて笑った。山あいの夜に、その笑い声が響いた。

(この笑い声が、好きだ。雅彦さんのこの笑い声が)

人生は48歳からだって始められる。遅すぎることなんて、何もない。

よし子は雅彦の肩にもたれかかり、月を見上げた。山の向こうから、春の風が吹き始めていた。

(ありがとう。正志に、美咲に、雅彦に、節子さんに、お義母さんに、みんなに——ありがとう)

目の前の月が、少し滲んで見えた。でも、泣いていても笑っていた。よし子は雅彦の肩に頬を寄せて、そっと目を閉じた。山の春の夜が、2人を包んでいた。

── 完 ──

本連載は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。