【前回の記事を読む】1発の500キロ爆弾が舞鶴軍港に炸裂。勤労学徒ら約90名が亡くなった…翌朝、米軍機230機が襲来――夕方の湾内に残っていたのは……
中舞鶴 八月十三日
遺された古樹
この時、被災しながら全壊を免れた鎮守府の建物は、戦後、水交社と同様に米軍に接収された。昭和三十年代まで残されていたようだが、やはり老朽化のために解体されたという。
写真で見るかつての鎮守府は、緑樹に囲まれた天空の邸のごとき趣をたたえている。
凛々しいたたずみを、文化財として後世に残すことはできなかったものだろうか。
かつての水交社の門をくぐり、公園に立ち入った。
近くのジャングルジムでお父さんが女の子を遊ばせていた。砂場の正面の植え込みに、三メートルほどの高さの松が聳(そび)えている。
脇に、水交社の門の傍らにあったものよりも古めかしい石柱が立っている。植え込みに近づき、腰を屈めて覗き込むと、「皇太子殿下御手植松」、「明治四十年五月十二日」と彫られていた。
大正天皇が皇太子時代にここを訪れ、植えられた松らしい。
明治、大正、昭和、平成という四つの御代を、空襲の戦禍をもくぐり抜け、今に息づく松なのだ。
公園を出ると、右手に、先ほど見上げた鎮守府跡の高台へつづく小道が延びていた。小道と、今上ってきた坂道の狭間の三角地帯に、小高い丘が隆起している。その丘の前に「海上自衛隊・舞鶴赤れんがパーク周辺案内図」と書かれたカラーの説明板が立っていた。
舞鶴湾の周辺一帯が図面化され、湾の東側の「赤れんがパーク」、湾中央の「自衛隊桟橋」、「北吸配水池」、西側の「海軍記念館」などの観光名所の所在地が記されている。
「現在地」を示す赤い表示の傍に「東郷邸」の文字がある。毎月第一日曜日・十時から十五時まで一般公開、と書かれている。今日は残念ながら第二日曜日だ。
鎮守府跡へつづく小道を行くと、道は叢を挟んですぐに二股になった。叢に水交社の門の脇にあったものと同じ石柱が覗く。
「東郷元帥遺跡旧長官邸」と彫られている。
右の脇道を行くと、閉じられた木の門があった。隙間からなかを覗くと、軒の低い日本家屋が見えた。
東郷平八郎が、連合艦隊司令長官に転任するまでの約二年間居住した、鎮守府司令長官の官舎。
叢の分岐まで戻り、二股の左手の緩やかな坂道を行った。途中の右手に「東郷邸」へ至るもう一つの脇道が延びていた。休館日だからか、進入禁止を示すチェーンが下がっている。
かつての鎮守府の敷地の手前に、「国有地につき無断で立ち入ることはできません 管理者海上保安学校」という立て札があった。
対面の植え込みに、また例の石柱がぽつんとある。
「海軍鎮守府司令部跡」、「平成四年十一月建立」と刻まれている。界隈に点々と見かけるこの石柱は、二十五年前に設えられたものらしい。
三角地帯の丘を挟む分岐点まで引き返した。丘の傾斜に木製の階段がある。上ってみると、下の道から五メートルほどの高さの頂部は思いのほか広く、木陰に覆われた涼しげな空間にベンチが二脚あった。
その一つに座り、樹々の間をそよぐ風に当たりながら、ひと息ついた。工廠と鎮守府のあった時代にも、散歩の途中にここで一服した軍人や職工がいたのかもしれない。
丘を下り、国道へ引き返す。烈(はげ)しい陽射しに、今しがた火照りを冷ました体からすぐに汗が噴き出した。
建設組合の前の自動販売機で五〇〇mlのお茶を買い、三口ほどで飲み干し、眩しい坂道を下った。