その後、亡き父だけでなく血縁認知の希薄化は、私たちにも向けられた。

私たちは、相変わらず隔週で母の家を訪れ、様子伺いも兼ねて食材の差し入れと庭の草むしりなどを続けていた。

徐々にありがとうという母の感謝の言葉を聞くことも減っていった。

母は態度も素っ気なく、やってもらうのが当たり前のように思っているようでもあった。「あなたたちは全然来ない」と、文句を言う日もあった。

その母の振る舞いは、自分の生活を心配をしてくれる大事な娘を、たまに訪れる介護スタッフと勘違いしているようにも見えた。

この頃の母は、「あなたたちのおせっかいはもういい、一人で生活できるんだからほっといて!」と、すぐ口にするようになっていた。

母の認知症進行を少しでも食い止めたい思いで記憶力や生活力の低下に関することを指摘する私たちは、たまに訪れる介護スタッフが、自分の生活を詮索し苦言を申し立てるような腹立たしい存在として、母には映っていたのだろう。

そして私たちへの当てつけのように、大事そうに保管したクリアファイルから地域雑誌の切り抜きを取り出して見せる。その切り抜き記事は母の家の地域にある町医者のマキ先生の特集であり、すごくいい先生だとしきりに説明するようになった。

母の心の拠り所は、隔週しか訪れない血縁関係のある私たちよりも雑誌切り抜きで毎日目にする町医者マキ先生に移ってしまったようだった。