【前回の記事を読む】平行線だった保険契約の話がすんなり決まった。勝因は、パチンコの景品で仕入れた「ハイライト」5箱を…

回想 ―希望と挫折―

営業職哀歌

関西の人間は口は悪いが人情味があって優しかった、美辞麗句を弄しても冷たい東京人とは対照的だ。

裕三が営業から帰社すると、常日頃「営業は日中会社におったらあかんで、事務仕事は朝早くか夜やるもんやで」が口癖の課長が珍しく日中にも拘わらず机にいた。

裕三の目の前にいた庶務の女性社員にも渡した積立金融商品のオレンジ色の申込書を目ざとく見つけると、寄ってきて申込書を手に取り、「あの難攻不落のオッチャン落としたんか、羽島君の若さと熱意が通じたんや」と手放しで褒めてくれた。

「課長が撒いてくださった種が実ったのを刈り取っただけです」と謙虚に答えた。

「好事魔多し」の真逆に万事順調は続くもので、「申込書を取りに来てほしい」旨の一本の電話のメモ書きが机にあった。同期入社の新入社員志野ちゃんの特徴的な丸文字の文面の片隅に描かれたラブ&ピースの絵柄にほっこりする。

ふと志野ちゃんに目をやると、ニコッとハムスターのような笑顔で裕三に微笑んだ。

女性に不慣れな裕三は自分で紅潮するのがわかるほど、ドギマギしながら慌ててぎくしゃくとした会釈を返した。

代理店の税理士事務所からであったが、今しがた訪問した代理店の至近の場所だったためタイミングの悪さに舌打ちしながらも、志野ちゃんの笑顔に気を取り直し、積立保険の申込書であることに一縷の希望を胸に期待を込めて、踵を返すように直ぐに向かった。

地下鉄を降り夕刻とはいえ地上にあがると梅雨明けの蒸すような暑さの中、分厚いタリフと呼ばれる保険料の料率表の入った重い鞄を引き摺り、夕食を買い求める買い物客でごった返す商店街の人混みを泳ぐように、目指す代理店へと善は急げとばかりに一路むかった。

今のようにパソコンやモバイルの普及がない当時は、料率表から自動車や火災保険の保険料を算出する大役が保険会社の社員として唯一無二専門性を誇れる職務であったため、分厚いタリフは営業社員にとっては肌身はなさずの必需品であった。

商店街の中ほど、ちょうど道路でアーケードが分断されるあたり、一階の薬局の石鹸か洗剤だかの香りが漂う階段を上がった三階に事務所はあった。

ノックして中からの応答と同時にドアを開けると、すでに帰路についたであろう唯一人の従業員である中年女性のパートスタッフの姿はなく女性代理店主も帰りの身支度をし始めているさなか、ハンカチを持たない手の甲で額の汗をぬぐいながら裕三は遅くなってしまったことを丁寧に詫びた。