「営業に一日出ており先ほど帰社したばかりでメモの伝言に急いで馳せ参じましたが申し訳……」
おざなりに相好を崩した彼女はすぐにいつもの能面のような無表情さにもどり、裕三のお粗末な言い訳を遮るように「はい、申込書」と差し出したそれは、裕三が渇望していたまさに積立金融商品の申込書そのものであった。
申込書に記載された桁違いかと思われる金額に腰を抜かしそうになりながら、申込書の契約金額を二度見してしまった。
「うわ、これ間違いないんですか。先生、この桁」「私、税理士よ。失礼ね」と氷の微笑で返された。
続けて、「お宅の長田課長さんが来られて、『羽島が新卒で初のキャンペーンに四苦八苦しております。なんとか男にしてやってください』って。あの不◯さんに頭下げて言われたらね」
他の裕三担当の代理店でも同じような科白を聞いた。裕三には一言もないが、無口な課長はそういう男であった。
税理士になるという野望
つい先日まで学生であった裕三は、当然のごとく税に関しては全くの門外漢であった。
件の大きな契約は、なんでも清掃会社が節税目的で全従業員に付保してくれたらしいが、そのスキームは知る由もなかった。
兎にも角にも永らく苦しんで格闘してきた目標数字を、彼女は一撃のもとに撃沈させたのである。この一件によって、か弱い華奢な彼女からは想像できない、パワーというよりも税理士の専門知識の得体の知れない神通力のようなものにすっかり魅了されてしまった。
同時に大学時代は体育会の運動部に所属し運動と麻雀にうつつをぬかし、社会に出る前のモラトリアムを謳歌してきてしまった愚かさに刮目させられ、雷にうたれたように、「なんとしても税理士になる」という野望を抱いた。
キャンペーン最終日梅田駅の地下街の『ドンク』で洋菓子を買い求めると、それを土産に税理士の代理店にお礼を兼ねて表敬訪問した。
「先日は大きな御契約をいただきましてありがとうございました。おかげさまで無事予算達成することができました」
「ご苦労様、たいへんね」
「いえいえ、先生のおかげです。ところで、先生、どうやったら税理士になれるのですか?」唐突に訊いてみた。
「年一回、夏に実施される税理士試験に合格すればいいのよ。ちょうど今年は来週の火曜日から三日間かけて行われるわ。年数制限のない科目合格制度で、五科目合格すればアガリよ」
「はあ、私でも合格できますかね」
「もちろんよ、わたしだって役所に勤めながら三年で合格したわよ。科目合格制度は働きながら資格を得るにはもってこい、お奨めよ。興味がおありだったら簿記が必修で基本になるから、これからやってみれば」
一冊の「簿記論」と表題に書かれた厚めのテキストを書棚から取り出して裕三に手渡した。
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