弐─嘉靖十三年、張(チャン)皇后廃され、翌十四年、曹洛瑩(ツァオルオイン)後宮に入るの事
(2)
「知らぬ」
「おぬしが知らぬということはあるまい」
「知らぬものは知らぬ」
「なんだ、しゃべるなと釘でもさされているのか? 安心せよ、おぬしとそれがしの間柄ではないか」
「……わしは、交渉役から、おろされた。そのあとのことは知らん。でなければ、こうして屋台など曳いているものか。先日も、客がその話題をふって来たが、わしは、その宝林館とやらを、見たこともないのだ」
「ふうむ」
天井の一点を凝視した。思案をめぐらせるとき、彼は、よくこういう目をするのである。
「あれから二年、漁門でよい役まわりを得て、幹部のひとりくらいにはなったかと思っていたが……こうして屋台を曳いて、おぬしの才能は、用いられることもないのか? あの算法も?」
「帳簿をつけるときだけだ。だが、あんなものは、算木かそろばんを使いさえすれば、誰にでもできる」
「もったいない話だのう。力士に指ずもうをとらせるようなものではないか。叙達(シュター)、はやく銀をつくってもって来い。五十両あれば、それがしが、李師父をくどいてくれよう」
「よろしくたのむ。ほら、注文の湯麵(しるそば)だ」
「うむ、これは、うまい。算法以外に、こんな特技があったのか」
箸をつけるなり、田閔(ティエンミン)は言った。
「おぬしの算法が埋もれるのはたしかにもったいないが、この味を天下にひろめないのも、宝のもちぐされだな。算法の妙味をわかる人はすくないが、料理の美味は、万人にわかる」
料理には、つくり方もあれば、食べ方もある。田閔(ティエンミン)は、じつにうまそうに食べる名人であった。
「これは、尚膳監(しょうぜんかん)のつくる麵よりも、数段上だな」
せわしなく箸をうごかす田閔(ティエンミン)。そこへまたひとり、若い宦官がやって来た。
「おじさん、湯麵(しるそば)ちょうだい」
娘のような声が言うと、田閔(ティエンミン)が、目をみひらいた。
「小金子(シャオジンツ)……小金子か?」
「あらァ、わかっちゃった?」