【前回の記事を読む】1970年代、田中角栄は子どもを「小さな猛獣」と揶揄した。未成年による暴力行為・器物損壊等…警察が出動する場面も多かった。
六 荒れの頂点を迎え疲弊していく教師たち
二〇一二年の秋から冬へと季節が変わろうとしている頃のことだった。
佐々木先生のクラスのある男子生徒が、他の仲間とじゃれ合っていた時、はずみで倒れ床で後頭部を強打する事故が起こった。
男子生徒は後頭部を抱えうずくまっている。すぐに校長に一報が入り、
「大至急、救急車を呼べ」
という指示が出て救急車が校内へ。
救急車の隊員が、
「生徒をS脳神経外科へ運びます。(先生方)どなたか生徒の荷物を持ってきてください」
その役を私が担当することになった。
生徒の荷物を持ち、私は自身の車で追いかけることに…。
「ピーポー、ピーポー」
赤色灯を回して走る救急車の後を追いかける私…このような経験は長い教師生活の中で初めてのことであった。
交差点に近づくと…信号が赤に変わった。緊急車両の救急車はそのまま交差点に入り通過していく。
さて、私はどうする?
実は私、S脳神経外科がどこにあるのか知らなかった。
そのために私の取った行動は…?
救急車に続き“赤信号の交差点”に侵入し通過したのである。
おかげでS脳神経外科まで迷うことなく無事にたどり着くことができた。
「良かった~」
と胸をなで下ろす私。
「先生、道路交通法違反ですよ。赤信号を無視しちゃいかんでしょ?」
と私を叱ってきた人がいる。
「すみません」
この方が、救急車の隊員で良かった。警察官だったら切符を切られていた…。
診断の結果、男子生徒は軽い脳しんとうを起こしただけで、不幸中の幸いであった。
救急車だけでなくパトカーも何度か校内に入ることがあった。あの時のことが今でもフラッシュバックすることがある。
三学期を迎え、私は生徒の進路指導にかかりきりになった。
放課後は面接練習を企画し運営した。生徒の面接練習希望を取り、その会場を手配し、仮想面接官として生徒たちの面接の練習台となったのである。必然的に野球部の練習には全く出られず生徒任せになった。
こういう時には、大体良くないことが起こるものである。案の定、練習内容を巡ってチーム内にトラブルが起こった。新キャプテンとなったKが報告してきた。
「Tが野球部を辞めたいと言っています」
Tは捕手で四番を任せているチームの中心選手である。私はTを呼び、彼自身の考えを聞いた。そして緊急にチームミーティングを開き話し合ったが、何があったのか原因もわからないまま、Tの考えが変わることはなかった。
野球部を任されて一年が経とうとするのに未だにこんな状態であった。県大会出場どころか市の大会でも一回勝てるかどうか、いや正直言って、部員が足りなくなり廃部になってしまう危険性さえ感じていた。
二〇一三年三月、彼らが二年生に上がる頃、こんなこともあった。
新一年生が上がってくる時期、小学校からの申し送り事項によると、始めは“三クラス”という予定であった。ところが蓋を開けてみると…“二クラス”に減っているではないか…。
「M中学校は荒れていて大変」という噂が流れ、新一年生の中には、私立の中学校か隣の中学校へ越境する生徒が数多く出てしまい、学級減で“二クラス”になったとのことである。
幹線道路を通勤する宮澤光雄先生は、
「M中との境の信号で待っていると、本校の制服と違った生徒がM(地名)方面から自転車に乗り、逆方面へ行くのです。この状況を見ていると、何か情けなくなってくる…」
とこぼされていた。