校長がそこにいるだけで学校ができた。絶妙なタイミングで登場するリーダーに、若い教師たちは魅せられた。
「この人について行きたい」「ついて行けば何とかなる」リーダーとして最も大切な信頼を、その後ろ姿で語る校長がいた。
はじめに ~野球バカ再び戦地へ~
一九八四年に千葉市立中学校の教壇に立った私であったが、出逢った諸先輩方からたくさんのこと(学級経営・教科指導・部活指導)を学ばせていただいた。学校の荒れも経験した。
野球に関しては、T中学校野球部を負けないチームに育て上げ、また専門部の一員(記者)として一定の評価をしていただけるようになってきていた。
一九九一年、広島県の教員採用試験を受け直して福山市に帰ってきた私は、何校かの中学校に勤務する中で、多くの生徒と泣き笑いを共にし、色々な管理職・先生方と出逢い、別れも重ねてきた。
二〇一二年三月下旬、
福山市立T中学校というのどかな田舎の中学校で六年間を、ある意味〝のほほん〟と過ごした私に人事異動の内示が出た。『福山市立M中学校への勤務を命ずる』
私は、二〇〇二年四月から二〇〇六年三月まで福山市立S中学校に勤務した経験があり、「ここS中学校が私にとって、福山市では最も西の端の勤務地になるのではないか。としたらそれより西に位置するM中学校への転勤はないだろう」という風に勝手に思い込んでいた。
本音を言うと、
「できたらM中学校には勤務したくないなあ」であったが…、その考えは実に甘かった。
M中学校は私が知る限りでは、「学校や生徒が落ち着いている」
という噂を聞いたことは一度たりともない学校であった。
〝恒常的に荒れていて生徒指導上大変な学校〟というイメージしかない学校であった。したがって転勤を命ぜられた時の気分はもう最悪であった…。