見た目では判断できない
母を見たことのない人は、どんなに怖い女性かと想像するだろう。
実際の母は見た目は静かで物腰柔らかな女性である。見かけが大人しそうだから性格も穏やかだと思うのは必ずしも真実ではない。以前、僕が住んでいたマンションの隣には、大人しそうな母親が住んでいたが、夕方になると決まって子どもを叱る怒号と上の子どもの悲鳴に近い泣き声が聞こえてきた。
このマンションは防音仕様で設計されていたので、実際の声は本当に大きかったのだ。たまたま居合わせた友人が「いったいあれはなに?」とびっくりするような声だったし、子どもに向かって「貴様は……」と言う言葉さえ聞き取れた。
転勤族らしいその家族は、父親の帰りがいつも深夜で、近所は見知らぬ人ばかり、そのため、その母親は孤独だったのだと思う。
その家の子どもが、玄関先に出されて「お母さん、ごめんなさい、入れてください」という声が聞こえてきたので、心配して見にいったことがある。「僕、大丈夫かい?」と尋ねるが、聞こえない振りをして迷惑そうな顔をする。
これが被虐待児の特徴の1つで、助けを求めると母親にさらに怒られると考えるようである。
僕も、寒い冬の吹雪のさ中に玄関先に部屋着のまま裸足で放り出されたとき、近所の主婦が「大丈夫?」と心配して声をかけてくれたことがある。それなのに、僕は、「大丈夫です、暑いんで涼みに出ているだけです」と答えた。被虐待児は、親からの恐怖に搦(から)め捕られてしまっているのである。
話を戻すと、ある日、子どもの悲鳴にたまりかねて、その母親に話をしにいくと、案の定、彼女は事実を否定したのだが、1人で頑張り過ぎないほうが良いとだけ僕は言っておいた。後日、その家族が転勤に伴い引っ越しをする際、その母親は「先日はありがとうございました」と挨拶に来た。
そこから推察すると、僕の考えは当たっていて、彼女は都会で知り合いもなく孤立し、育児に疲れ果てていたのだと思う。事実、僕が声をかけた翌日から怒鳴り声は聞こえなくなっていた。1人でも理解者がいるという気持ちが、彼女の暴走を止めたに違いない。その母親も、見るからに気が弱そうな女性だった。
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