【前回の記事を読む】母は僕の服を無理やり全部はぎ取り、真っ裸のまま風呂場へ連れていった…泣きながら「ごめんなさい」と謝る僕に、冷たい水を何度も浴びせ…

一 折檻を恐れた幼少期

逃げ道がない

そんな躾の結果、たとえば、食事のときに母の手が僕の目の前に伸びてくると、反射的に手で頰を覆うまでになっていた。いつなんどき母の怒りを買い、ビンタがやってくるかわからないからだ。その母の手が僕の前を通り過ぎて醤油のビンを取るのを見届けると、ほっと安心したものだった。食事のときでも油断ができなかった。

小学校のときに同級生と商店街で遊んで景品を当てたときは、母の許可を得ないで遊んだことがばれるのではないかと、景品を持って帰るのが怖かった。友だちにお願いして代わりに持って帰ってもらおうとしたけれども、友だちは、「それはお前のだから持って帰れよ」と言い、それ以上言えなかった僕は、引っ叩かれるのを覚悟で帰宅したのだった。

しかし、母は怒らなかった、子ども心に「今日は怒らないんだ」とほっとしたが、このように母の怒りは気紛れだった。怒りのルールがわからないというのは、本当に恐怖である。

小学校1年生のクラスでは、先生が毎日「良い子カード」というものを児童に配っていた。もちろん、クラスの全員がもらえるのではなく、その日大人しく授業を受けていた一部の子どもにだけ配られた。担任の先生としては、子どもたち全員がいち早く学校の集団生活に慣れるように考えた仕組みだったのだろうが、僕にとっては恐怖でしかなかった。

というのも、「良い子カード」は全員がもらえるわけではないので、もらえない日のほうが多かったのだが、この「良い子カード」をもらわずに帰ると、必ず母の怒りが待っていたからだ。

僕はあまりに恐ろしかったので、カードをもらえなかった日は、居残りをして先生にカードをくれるよう泣きついて懇願したのを覚えている。そんな嘆願も空しく、「良い子カード」は決して渡してもらえず、僕は恐怖を抱えながら帰宅し、そして叩かれるのだった。

そんな1年が過ぎて進級した小学2年生のときの担任は、とても優しい若い男の先生だった。クラスの皆が慕っていた。そんな先生に僕は心を開いたのだろう、ある日先生に「うちのお母さんは鬼婆だ」と打ち明けた。たぶん、初めて自分の苦しさを言葉に出して家族以外の人間に言ったのだと思う。

しかし、数日後、その先生は、母に僕の言動を好ましくないものとして報告していた。「子どもに、鬼婆なんて呼ばせないようにしてください」という内容だった。もちろん、母は激怒した、当然、折檻が待っていた。

「良い子カード」にしても、「鬼婆」にしても、もし現在の日本の小学校でこのような言動が子どもに見られれば、子どもだけに問題があると一蹴されることはないだろう。親からの虐待が疑われて、もっと適切な対応がなされるはずだ。

しかし、当時はそんなことは期待できなかった。虐待という観念が一般的ではなかった時代だったし、父も母がそんなことをするとは想像もできなかったのだろう。