「あれ、今日は行列ができているよ」

相棒が素っ頓狂な声でそう言った。店を開けると、すぐ満席になった。

ウエイターは、客に呼ばれるたびにすぐそれに応えようとしてはダメで、「お待ちください」と言って、優先順位を決めて捌いていかないと、収拾がつかなくなる、と、兄から聞いていたが、いざ客が押し寄せると、舞い上がってしまい、一一、客に反応し、私も相棒もテーブルの間で、すぐ立ち往生し、客と兄に怒鳴られ、声の大きい方の指示に従うだけだった。

そんな中、一度など、お盆に載せた五人の客のグラスのワインやビールを威勢よく客にモロぶちまけたりしたが、とにかく余裕がない。五時に店を開けたと思ったら、気が付いたら、十時を過ぎていた、と言う感じだった。

だが面白いもので、そんな晩が三日続いたら、皿洗い同様、いきなり客を捌けるようになっていた。ウエイターを命じられた時、一番心配していた英語の問題も、気が付いたら何か喋っていて、電話での面倒な握り寿司の持ち帰りの注文も何とか取っていた。

そして一月経って風呂に入ると、足の両サイドに厚い胼胝ができていた。何だと思ったら、狭い店で、キュキュッと切れ良く、テーブルの間を通るので、方向を変える時、そこで踏ん張るのでできた胼胝だった。

当時はアメリカ政府も寛容だったので、例の弁護士に頼めば、更なるビザの延長も難しくなかった。Kに先にグリーンカードを譲っても、そのまま翌年まで滞在し、グリーンカードを取ることも可能だった。

五か月を過ぎたころには、若い私は仕事にすっかり慣れ、ウエイターで必要な英語は使えるようになっていたし、お客さんにも顔なじみができ、Kを初め、従業員たちともいい関係になっていた。

戦後、米兵と結婚し、渡米したウエイトレスのY子さんなどは、兄に縛られている私を見かねて、自分の家の部屋を、当面、無料で貸してくれるとまで言ってくれた。しかし、六か月の期限で、私は固く日本へ帰ることに決めていた。

兄とこれ以上暮らすのがいよいよ難しくなってきたこともあったが、それ以上に若い私は、人生に焦っていた。

80年代後半、いよいよバブル経済へ向かうことになる、活気ある日本社会の風潮と言ったら言い過ぎだろうが、少なくとも最初に知った社会である地方の土建業界の「空気」の中で三年間暮らしたことで、少なくとも三十歳前に堅い仕事に就き、結婚して、家庭を持つという「標準」がしっかり頭の中に刷り込まれていた。

実際、26歳からの三年間、何故結婚しないのか、と何度訊かれたことだろうか、そして、三度、お見合いをする羽目になった。だから、30歳を過ぎて、「まともな仕事」につかず、暮らすなどという事が想像できなかった。

次回更新は8月3日(月)、11時の予定です。

 

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