驚くことに思い返してみると通りを行く小学生の声も聞こえた。朝の登校時は子どもたちも急いでいるのだろう、話し声はない。

しかし下校時には子どもたちの元気な甲高い、そして笑い声も聞こえてくる。その声は自分の子どもたちの声に思えて、かわいらしく聞こえた。

街並み、その街を吹く風も、時折見上げた空も、私の街を吹く風、私の街の高い空だった。これらを含めて「私の家」だった。

保利さんは福岡からの入居だった。二人の息子さんがいるが二人とも東京である。保利さんが入院するとそのつどどちらかの息子さんが飛んでくる。

その負担を考えて東京のこのホームに入居した。彼女は口ぐせのように「生まれ育った街がいちばん」と言う。

この短い言葉の中に私がこまごまと書き綴った「家」への思いがすべて込められているように思う。

最近、食事以外はほとんど部屋を出なくなった彼女が「空を眺めている」と言ったことがある。その空は福岡に続いている空なのだろう。

それまで生まれ育ち、生きてきた人生のすべてから離れて入居するのが「老人ホーム」なのだ。これは「家」を離れ、生きてきた証しともいえるものとの決別でもあるので、それを体験した者にしかわからない。

昭和十六年生まれの私は軍歌が好きだ。戦いに赴く若者を鼓舞し励ますと共にどこか哀愁をおびているのが私の心にしみてくる。決して思想的な意味はない。私には幼い時に耳にした歌、いわば童謡なのである。

母に抱かれていた幼い私は母から童謡を聞いたことがない。また周囲の大人たちも童謡など歌うことはなかっただろう。時代が時代だったから。

終戦四ケ月前に疎開した信州の村は浅間山の麓にあった。百姓家の主人が大きな納屋を持っていて、その半分を簡易な板で仕切って親子五人が布団を並べて寝れるだけのスペースを作ってくれた「家」だった。

そこでの生活はラジオさえなかった。だから歌といえば唯一軍歌が私の歌だった。それでこの軍歌は多分その歌詞も間違いないだろうといえるほどに記憶されていた。

この軍歌を口ずさむ時、私は歌詞をこの老人ホームに結びつけていることが多い。それは「嵐が過ぎても帰る日も来なければ、春も来ない」が私は「終の棲」と思っているということだ。

しかし私は決してそれを悲愴とは思っていない。諦めではない。諦めには「諦めきれない」という思いがついてくる。私は「認める」と思っているのだ。「認める」は私の意志、決定だからだ。

 

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