【前回の記事を読む】「人、じゃなくて?」息子の問いに答えられなかった父。フレームを外すと、そこに“彼女”はいなかった

息子にAIを彼女として紹介されたらどうしよ

第3章 仕様と設定

仕事から帰ってきて、上着を椅子にかけるたびに、その存在が視界の端にひっかかる。

電気を消す前、ふとリビングを振り返る。

暗くなりかけた部屋の真ん中に、黒い線がひとつ、取り残されている。

それを手に取る勇気が出るまでに、二週間かかった。

きっかけは、ほんの些細なことだった。

土曜の午後、洗濯機が止まるのを待ちながら、私はテーブルの上のちらかった書類を片づけていた。

公共料金の明細や、クレジットカードの利用明細。

紙の向こう側には、何月何日にどこでいくら使ったかという、私の生活の断片が印字されている。

妻がいた頃は、こうした紙切れのほとんどを彼女が管理していた。

私は給料から決まった額を振り込み、あとは黙って働いていればよかった。

いまは、紙の山と、ネット銀行の画面の両方を、自分一人で眺めなければならない。

ふと、電気代の明細に目が留まった。

去年の同じ月より、使用量が少ない。

部屋の灯りをつける場所が減り、夜更かしをすることも少なくなったからだろう。

生活が細っていくのに合わせて、請求額も細っていく。

生活が細っていくのに合わせて、請求額も細っていく。

それは悪いことではないはずなのに、紙の上の数字が、私自身の存在が縮んでいく証明みたいに見えて、少しだけ腹立たしくなった。

紙の束をどさりとテーブルに置いた拍子に、フレームがかすかに揺れた。

黒い線が、光をひとつ弾いた。

その瞬間、私は視線をそらし損ねた。

洗濯機の終了音が、遠くから聞こえる。

乾燥機に放り込む前に、一度取りに行くべきなのはわかっている。

だが、足は動かなかった。

テーブルに伸ばした右手が、紙の角を滑り、フレームの冷たい表面に触れる。

指先に、思っていたよりも重量感のある金属の感触が伝わった。

持ち上げると、内側のレンズに、こちらを覗き込む自分の顔が小さく映った。

鼻の脇のしみと、額の皺。

そのすぐ横に、天井の照明が歪んで映り、光の輪になっている。