二 三方ヶ原の戦い~駿河・遠江の分割領有から合戦に至るまで~

武田・徳川間で交わされた分割領有の密約について

永禄十一年(一五六八)十二月、甲斐の武田信玄が北から駿河に向けて、三河の徳川家康が西から遠江に向けて、相次いで侵攻を開始した。

甲斐から駿河への侵攻に対し駿府を持ち堪えられなくなった今川氏真は、遠江掛川城の朝比奈備中守を頼って籠城した。

三河から井伊谷を経て遠江に侵攻した徳川家康は、引間(曳馬)を陥落させ掛川城を包囲した。

この両側からの同時侵攻については、あらかじめ武田信玄と徳川家康の間に分割領有の密約がなされていた。

このことは『三河物語』には「甲斐ノ武田之信玄ト仰合而、家康ハ遠江ヲ河切に取給得、我ハ駿河ヲ取ント仰合候而、両国得出給ふ」と記述されている。

ところが、現代の研究者は以下のように論争している。

①大井川を川切にして駿河は武田・遠江は徳川という密約があった

②一応の①の密約はあったが、実力次第で川を越えて侵略してもよいという暗黙の了解があった

③徳川は大井川を川切にしてと認識して、武田は天竜川を川切にしてと認識して、双方ずれがあった

などである。