【前回記事を読む】今川義元の西進の目的は? 通説とされてきた「上洛説」よりも有力な説が幾つかあって…
第一部 桶狭間の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い
一 桶狭間の戦い ~「正面攻撃説」から「迂回奇襲説」へ回帰する~
今川義元の西進の目的はなんだったのか?
私はこれまで、桶狭間の戦いは正面攻撃ではなく迂回奇襲であると論じてきて、それは織田軍は迂回奇襲によらなければ到底勝利は有り得ないほど今川軍との軍事力差は歴然だったという考察に至っているので、②尾張三河国境の紛争解決のためという説では消極的過ぎると考え、③尾張へ勢力拡大のためという説が適当ではないかと思っている。
この場合において、義元は織田氏を滅ぼしてしまおうと考えてはいなかったように思える。もともと駿河・遠江・三河の三国を有する大大名の今川氏の家臣団は国衆の集合体なのだから、さらに織田氏も国衆の仲間に加えようというものだったのではないか。
今川本軍が鳴海方面ではなく大高方面に向かったとする説の提唱者の多くが、当時の大高城は伊勢湾に面し海上からの作戦があったと論じている。『信長公記』には「うぐゐらの服部左京助、義元へ手合として、武者舟千艘計、海上は蛛の子をちらすか如く、大高の下、黒末川口迄乗入候へとも」とあり、鯏浦衆と連携した海上からの作戦があったというのである。
私は『信長公記』の記述の中で解釈できる範囲で鯏浦衆の目的を論じればよいと思う。
『信長公記』のこの記述は「別の働なく乗帰し、もどりさまに熱田の湊へ舟を寄、遠浅の所より下立て、町口へ火を懸け候ハんと仕候」と続くことから、義元が善照寺砦・中島砦・丹下砦を攻略して鳴海城とその一帯を確保した翌日にも清洲に向けて陸路進軍することを想定し、それを海から連携して熱田を攻撃するという作戦だったと考えられよう。
長期的に上洛までの計画が視野にあったかどうかの論議は今後の研究成果に期待したいが、どうやら少なくとも清洲城攻撃までの作戦があったと考えるのが妥当であると思う。