今後の研究の一助になれば……
以上のことから、私の結論は以下のように要約される。
・織田軍の進軍経路は、中島砦を出撃してから桶狭間の戦場に至るまでに、鷲津・丸根砦付近までの南方を大きく迂回する経路だったこと
・今川軍の本陣は大高方面ではなく鳴海方面に向かったこと
・織田軍は善照寺砦から敵本陣を攻める一手と敵前軍を攻める一手に分かれたこと。敵前軍を攻めた一手は佐々・千秋の数百騎程度のものとは別の、数千人規模で敵前軍への攻撃から敵全軍への追撃戦まで行ったであろうこと
私が解明した織田軍の進軍経路と奇襲攻撃の仮説について、従来の迂回奇襲説と区別して「南方迂回奇襲説」と名づけたいが、承認いただけるだろうか。
この結論に至るまでに、それなりの史料や書籍を読んだのであるが、最も重要視した『信長公記』については、愛知県史資料編11掲載のものを参照させていただいた。『三河物語』『甫庵信長記』についても同様である。県史に収録されていない『松平記』『日本戦史 桶狭間役』については豊明市史を参照させていただいた。
これらを手軽に読める環境にあることに感謝するとともに、これらの史料を原文で読みたいと思う方が愛知県内に住んでいるならば、近くの公立図書館に行ってみることをお勧めする。
桶狭間の戦いについては、様々な研究者が書籍を出して諸説が展開されているが、このうち藤本氏の「正面攻撃説」については特に敬意をもって参照させていただいて、さらには一部批評を加えさせていただいた。この説への疑問の提起としては、
・桶狭間山に休息した今川軍について、それが本陣であると決めつけたこと(支隊である可能性がなかったか)
・織田軍は中島砦から東に向かったとしたこと(南に向かったのではなかったか)
という2点ではあるが、たったこのことが「正面攻撃説」と「迂回奇襲説」に大きく結論が分かれることになってしまった。残念なことは、論証の過程で「桶狭間の合戦を奇襲戦であるかのように言い出したのは、江戸初期の作家、小瀬甫庵である」と断じて、「迂回奇襲説」を『甫庵信長記』による完全な創作であると貶めてしまったことである。
小瀬甫庵は『甫庵信長記』を著すにあたり
「左府の士に太田牛一と云う人あり。尾陽春日の郡の人なり。近世至治に帰する其の功、後代に伝へん事を欲して粗記し行くまゝに、漸く重累して数帙成んぬ。まことに其の士の取捨、功の是非を論ずるに、朴にして約なり。上世の史とも云つべし」
と『信長公記』を意識したことを明かし、
「しかはあれど仕途に奔走して閑暇なき身なれば漏脱なきに非ず。予是を本として、且は公の善、尽く備はらざる事を歎き、且は功あつて洩れぬる人、其の遺憾いかばかりぞやと思ふまゝに、且々拾ひ求め之を重撰す」
と内容に改編を加えたことを明かしている。
その結果、同時代の大久保忠教に『三河物語』のなかで「信長キヲ見ルニイツワリ多シ、三ヶ一者有事成、三ヶ一者似タル事モ有、三ヶ一者無跡事成」と酷評されているが、「信長記作タル者、我々ガヒヰキノ者ヲ我ガ智恵之有儘に能作タルト見得タリ」という改編の傾向も指摘されている。
『甫庵信長記』の全てを頭ごなしに創作だと決めつけるのではなく、傾向の部分を注意深く見極めながら読み進めるということ、それが歴史に向き合う大切な姿勢だと思うのである。
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