【前回記事を読む】今川本軍の進軍経路は「織田方」に遺された史料で判断できるのか。鳴海方面説に残る論拠の欠如

第一部 桶狭間の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い

一 桶狭間の戦い ~「正面攻撃説」から「迂回奇襲説」へ回帰する~

織田軍は二手に分かれたという説

朝未明に清洲を出撃した信長はあまりにも行動が突然すぎて、『信長公記』には「善照寺佐久間居陣の取出へ御出有て、御人数立られ、勢衆揃へさせられ」とあるものの、多くが集合時間の午剋に間に合わなかったと想像できる。

「ふり切て中島へ御移り候、此時二千に不足御人数之由申候」とあるから、敵本陣を攻めた一手は中島砦の軍勢を加えたとしても二千を僅かに越える程度で、それ以外は善照寺砦に取り残されていたのであろう。

桶狭間に長福寺という寺院があって、ここには桶狭間の戦いの討死者を供養するために作成された「桶狭間合戦討死者書上」がある。それによると織田方の死者は九百九十名とあり、敵本陣に奇襲しかけた二千を僅かに越える程度の軍勢に対してはあまりに討死者の比率が高過ぎる。

これは敵本陣を攻めた一手だけでなく、敵御先衆に攻めかかった一手の討死者も含めた数字だと考えた方がよさそうであるが、それは数千人規模であったとするのが適当であろう。

そして、敵前軍を攻めた一手が善照寺砦から討って出たタイミングは、敵本陣を攻めた一手の突撃が功を奏して今川本陣が崩壊して、その激震が前軍に伝わり動揺が広がった瞬間だったのではないか。この瞬間であれば敵を突き崩すことは容易で、戦場を鳴海から桶狭間一帯に追撃戦を展開できたと考えられる。

そういえば、「正面攻撃説」支持者が、織田軍が中島砦から東へ進んだという説にこだわるのは、地元に伝承される合戦の目撃談や合戦後の残骸その類を取材してのことではないだろうか。