ただし注意をしなければならないのは、敵本陣を攻めた一手の迂回奇襲という隠密性をおびた作戦の遂行よりも、敵前軍を攻めた一手の演じた派手な追撃戦のほうが地元にインパクトを与えた可能性が高いということである。
地元に伝承された最も有名な場所といえば太子ヶ根であろう。山岡荘八の『徳川家康』には「太子ヶ根山に到着したのは正午。そのころから早い流れ雲が再び空を蔽いつくして、いまにも雷雨が来そうな雲行きに変わっている」と書かれているし、司馬遼太郎の『国盗り物語』には「田楽狭間を見おろす太子ヶ根についたのは午後一時すぎであったろう。
風雨がさらに強くなったためにここで小歇みを待った」と書かれているように、昭和の名著といわれた歴史小説にことごとく登場するこの地名は、『日本戦史 桶狭間役』の「西軍稍々霽ルゝヲ待チ午後二時頃吶喊シテ山ヲ下り直チニ敵営ヲ衝キ縦横ニ馳突ス」「山」の注釈に「字太子ヶ根(愛知郡鳴海村ノ内〇此役以後土民之ヲ大将ヶ根ト称ス)」と書かれている。
これを信ずるならば古戦場は豊明市栄町南館の国指定伝説地ということになろうが、これが敵前軍を攻めた一手の足跡が生んだ伝承かも知れないという疑問や、後世になって古戦場の場所から逆算して比定された伝承かも知れないという疑問を吟味せざるを得ない。
名古屋市緑区桶狭間の古戦場のパンフレットには「釜ヶ谷」という地名を紹介しており、織田軍がこの山陰に集結して身を潜め雷雨の過ぎるのを待ち今川軍右翼に突撃を開始した場所と説明している。
古戦場保存会によると「この地域に伝わる話は合戦を目の当たりにした村人による目撃談であり、申し送りをして脈々と伝えてきた」もので「伝承は信憑性が高い話」ということだそうである。