【前回記事を読む】織田軍は中島砦から南に向かって出撃した? 進軍経路を『信長公記』の記述から解釈すると…

第一部 桶狭間の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い

一 桶狭間の戦い ~「正面攻撃説」から「迂回奇襲説」へ回帰する~

織田軍の進軍経路の想定地図を完成させる

実際に現在の中島砦跡を訪ねると、手越川という小さな川のほとりにある。桶狭間の戦いがあった戦国時代は現在よりももっと伊勢湾が入り込んでおり水位ももっと高かったと考えられるため、南に向かったとすれば渡河をすることになる。

部分的に見れば南に向かうより、手越川に沿って東海道を東に向かうほうがよほど自然のような気もするし、南に向かう方が敵の目に触れる可能性が高いのではないかという指摘もあろう。

もしかすると、中島砦が手越川を渡河して南に向かって出撃するための機能を備えた構造だったかも知れない。『信長公記』には「東に善照寺とて古跡之在、御要害候て」に対して「南中島とて小村有、御取出に被成」とあるように、善照寺砦と比較して中島砦は意図を持って築かれた砦であるように思われるのである。

最初に用意した地図、北を上向きに置いて現在の大高緑地になっている丘陵に右向き矢印を書き込んだ地図であるが、それに中島砦から南に向かって下向き矢印を書き込んでみる。その二つの矢印を丸根砦の北麓あたりでつながるように調整すると、これが織田軍の進軍経路ということになる。

ここで信長が鷲津・丸根砦を奪い返そうとしていたかどうかは解らない。敵将義元は大高方面には向かっていないこと、鷲津・丸根砦付近に敵本陣がある訳ではないことを、信長は認識していたに違いない。

何故ならば義元は駿河を出陣する直前の四月十二日付で水野十郎左衛門尉宛に「夏中可令進発候条、其以前尾州境取出之儀申付、人数差遣候、然者其表之事、弥馳走可為祝着候、尚朝比奈備中守可申候、恐々謹言」という書状を発しているからである。

文中の朝比奈備中守は朝比奈泰能であるとされてきたが近年ではその子である朝比奈泰朝であるとされていて、松平勢が丸根砦を攻撃するのと同時に朝比奈勢は鷲津砦を攻撃したとされている。意訳すれば大高方面は朝比奈備中守に采配を託したので義元自身は向かわないということになる。