水野十郎左衛門尉は水野信元であるか或いは信元に近い一族の人物(水野信近?)とされるが、いずれにしても水野氏は織田氏と協力関係にあるので、その情報は信長に届けられるに違いないのだが、義元はあえて通告したのである。朝比奈勢が向かう先には松平勢も加わるということが折込まれていて、水野信元は自分の甥にあたる松平元康とは戦いたくないだろうという心理を利用して、義元は水野を懐柔することを優先したのである。

ということは、信長は最初から敵本陣に奇襲をしかけることなど考えていなかったかも知れない。もしかすると、善照寺砦から中島砦へと進軍しているうちはまだ敵軍のどこかに一矢報いたいという漠然とした狙いがあっただけだったが、ここにきてはじめて敵本陣が予想の外に手薄で急襲すれば勝機を見出せることに気付いたのかも知れない。

案外と『甫庵信長記』の記述が真相に近いかも知れない。信長が「敵勢ノ後ノ山ニ至テ推マハスヘシ」と下知しているところへ、梁田出羽守が「仰最可然候、敵ハ今朝鷲津・丸根ヲ責テ其陣ヲ易ヘカラス、然レハ此分ニカ丶ラせ給へハ敵ノ後陣ハ先陣也、是ハ後陣ヘカ丶リ合フ間、必大将ヲ討事モ候ハン、唯急カせ給ヘ」と申し上げるのである。

もちろん『甫庵信長記』は「信長キヲ見ルニイツワリ多シ、三ヶ一者有事成、三ヶ一者似タル事モ有、三ヶ一者無跡事成」と『三河物語』に酷評されたほど脚色が多い史料であるから鵜呑みにはできない。

著者小瀬甫庵は桶狭間の戦い以降の生まれであり、当然桶狭間の戦いを自身で経験した訳ではない。太田牛一の『信長公記』と比較して読んでみれば、いかにも『信長公記』を下敷きにして書いたということが解るし、そこにイメージを膨らませて書いた部分が加わっているのも確かである。

その膨らませた部分が、どこからか情報を得て盛り込んだのか甫庵の全くの想像で書かれたか、判断のつけようがない。敵の背後に廻り込む作戦を発案したのが信長自身なのか、それに相槌を打ったのが梁田出羽守なのか、『甫庵信長記』の記述のいちいちを信用することはできないのだが、少なくともこの時点ではじめて迂回奇襲攻撃が作戦として成立したというのが事実であるような気がしてならない。

 

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