今川義元の西進の目的はなんだったのか?
従来より今川義元の西進の目的は、『甫庵信長記』の「天下ヘ切テ上リ国家ノ邪路ヲ正ントテ」という記述から上洛して天下に号令をかけるという「上洛説」が通説とされてきた。
最近では、後世の軍記物の創作であり史実とは異なるのではないかと疑問視されている。それに代わり提唱されている幾つかの有力な説として以下のようなものがある。
①三河の支配を確実にするためという説……永禄三年五月八日付で「治部大輔義元 宣任参河守」という宣旨、同時に「従五位下源氏実 宣任治部大輔」という宣旨が出ていることから、義元は三河の経営に本腰を入れる意図があったとし、その脅威となる隣国尾張を攻めたという説。
②尾張三河国境の紛争解決のためという説……今川氏が尾張で占有している鳴海城・大高城・沓掛城の確保のために、その付城として織田勢が築いた善照寺砦・中島砦・丹下砦・鷲津砦・丸根砦を攻撃・破却を目指したというもの。
③尾張へ勢力拡大のためという説……尾張の織田氏を降し勢力下に収めるためというもの。最初に「正面攻撃説」を提唱した藤本氏は、「当時としてはごく平凡な、群雄間の境界争いの結果として起きた、ローカルな事件」と断じているから、②尾張三河国境の紛争解決のためという説を採っているといえる。
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